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「あたし、ずっと眠ってたらしいから誘拐とか覚えてないし……今日だけは、あたしの散歩に付き合ってただけってことにしてあげてもいいけど」
すると、アルトが驚いた顔をしてあたしを見た。目が合い、頬がカッと熱くなる。
「なっ、なによ」
「……いえ。ありがとうございます」
「言っておくけど、今回だけだから」
「やっぱり、お嬢様は繊細でお優しいかたです」
「はぁ? なにそれ嫌味?」
アルトは穏やかに「まさか」と微笑み、言った。
「お嬢様は覚えてないかもしれませんが」
「?」
「実は私、ボディーガードになる前に一度お嬢様にお会いしているんですよ」
目を丸くする。
「うそ、いつ?」
「お嬢様が、ご両親を亡くされてすぐの頃でしょうか」
過去の記憶を手繰り寄せるが、ぜんぜん思い出せない。
眉を寄せていると、アルトは苦笑混じりに言った。
「お嬢様はきっと覚えておられませんよ」
その言葉にムッとする。
「いつのこと? 具体的に言ってくれなきゃ、あんたみたいな地味なおっさんなんて、思い出せないわよ」
不機嫌をあらわにして言うと、アルトは少しためらいがちに目を泳がせてから、
「……ご両親のお墓の前です」
と言った。
「……え」
記憶の海の中、かすかに思い当たるものがあった。
「……あの日、お嬢様はうなだれるようにして、ご両親のお墓の前にうずくまっていました。声をかけようかとも思ったのですが、そのときはまだお嬢様に話しかけられるような立場ではなくて」
両親を亡くした頃、私は塞ぎ込んでいた。
大人を信用できなくて、だから、悲しくても寂しくてもだれにも言えなくて。
辛くなると、いつも両親のお墓に行って、ひとりで泣いていた。
「……以前、お嬢様は私に聞かれましたよね」
「なにを?」
「なんでこんな仕事をしているのかって」
「あぁ……」
そういえば、そんな話をしたこともあった。
「私はもともとこの国の生まれではなくて……気付いたらこの国にいたんですよ」
「気付いたら? え、なにそれ」
気付いたら知らない国にいた? そんなことがあるのだろうか。
「私にも分かりません。ただ……その国に戻る方法は今のところないみたいで」
そう呟くアルトは、よりどころない顔をしているように見えた。
「……国が戦争中とか?」
「いえ、そうではないのですが……ええと、簡単に言いますとですね、私が暮らしていたのはこの世界の地図に載っていない場所なんですよ」
この世界の地図に載っていない場所?
「……は? なにそれ、そんな場所ある?」
「あるみたいです」
ますます謎だ。困惑するあたしを見て、アルトはやっぱり困ったように笑う。
「まぁ、それで……途方に暮れていたとき会長に拾われて」
「…………」
「会長は、お嬢様のことをとても心配しておられますよ」
ご両親の件で大人たちの黒い部分を見てしまい、言葉を発せなくなってしまったお嬢様は、それから大人を信用しなくなった。さらに親友をいじめで亡くしたお嬢様は、大切なものを作ることを極端に恐れ始めてしまった、と。
「……べつに、そんなの子供の頃の話だし」
「いいえ。お嬢様は今も怯えている」
思わず息を呑む。顔を上げると、アルトは寂しげにあたしを見つめていた。
「きらいという感情は、両想いになりやすいって知ってましたか?」
「え?」
「お嬢様が私に辛く当たるのは、私にきらわれるため。私がお嬢様をきらえば、お嬢様も私をきらいになれるから。そうやってずっと、じぶんの心を守ってきたんですね」
大切なひとを作らないように、と言うアルトの言葉を遮るように叫ぶ。
「違う!」
じぶんでも驚くほどの声が出た。
「そんなわけないじゃない。あたしはもともとこういう性格! クズで価値のない人間なの!」
興奮して声を荒らげるあたしに、アルトは優しい眼差しを向ける。
「お嬢様はとても優しいひとですよ」
「違うってば!」
「なら、どうして今そんな泣きそうなんですか」
ハッとした。ぽろり、と頬になにかが落ちて、あたしはそれを慌てて拭う。
「し、してない! あんた、老眼なんじゃないの!?」
老眼、という言葉にアルトは一瞬面食らったように固まる。直後、くすっと笑った。
「お嬢様のわがままはぜんぶ、寂しい、助けてっていう言葉の裏返しです。だから私は、お嬢様のわがままを性悪だなんて思いません」
その瞬間、これまでずっと堪えていた涙が、ぽろぽろと溢れ出した。
「だって……仕方ないじゃない。そうするしか、分からなかったんだもの。きらわれてひとりのほうが楽だったんだもの……」
「私はお嬢様をきらいになったりしません。お嬢様を置いてどこかに行くこともありません。だから、私の前ではどうか、そんなに気を張らないで」
とめどなく溢れてくるそれを、ごしごしと指の腹で乱雑に拭う。
優しく微笑むアルトに、なぜか胸が鳴った。
なんだろう、この感じ。
心臓がざわざわして、いらいらする。
でも、いらいらするのにいやじゃない。
「ほら、そんなに雑に拭ったらせっかくのきれいなお顔が赤くなってしまいますよ」
どくん、とまた心臓が跳ねる。
きれい、だなんて言われ慣れているはずの言葉なのに。
アルトに言われると、なぜか特別に恥ずかしくなる。
目を合わせることができなくて、心が落ち着かない。
「……アルト」
名前を呼ぶと、アルトが「はい」とあたしを見る。
「……今まで、ひどいこと言ってごめんなさい」
「いえ」
「これからは気を付ける……」
「はい」
「……だから、今まで散々なことをしておいて図々しいかもしれないけど……これからもあたしの専属でいてくれる?」
恐る恐る訊ねると、アルトは柔らかく微笑んだ。
「もちろんです、お嬢様」
あたしは、アルトの微笑みから目が離せなくなった。
あたしの執事兼ボディガードは、くたびれたスーツの冴えないおじさんだ。
ぜんぜんイケメンじゃないし、スマートでもない。
それなのに、あたしのレンズにはとびきりカッコよく見えてしまうのだから、恋って怖 おそろしい。
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