5-4.梓恩、皇后の頭痛を解き明かす

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5-4.梓恩、皇后の頭痛を解き明かす

 寧凛(ネイリン)が、すっと皇后から目をそらす。箸を落とすのは礼儀(マナー)違反だが、身分が高い人がしてしまったときには、見ないふりをするのが礼儀(マナー)雅雲君(弟殿下)とわたしも、それにならう。  巽龍君(皇太子殿下)の顔が、さっと曇った。 「母君(皇后陛下)……」 「と、思ったか!? ほら、箸ならちゃんと、持ってるぞ!? ほれほれ」 「母君っ!」 「心配したか? 宝龍(皇太子)よ」 「心配など! するわけがないでしょう!」  からからと笑う皇后陛下。  落としかけた箸を素晴らしい反射神経でつかんでみせたのだ。  そのまま皿に盛られた筆頭菜(つくし)をつまみ、口に運ぶ ―― 動きは滑らかで不安はない。  だが、息子をからかうためだけに、こんなことをするだろうか……? 「ふむ。このほろ苦さがなんともいえず、癖になるな。うまく料理したな、梓恩」 「おそれいります」 「その筆頭菜(つくし)は、私と雅雲()も、つんだのですよ! ね、雅雲」 「はい」  こくっとうなずく雅雲君。  巽龍君(皇太子殿下)雅雲君(弟殿下)の肩に手を置き、胸を張った。 「母君におわけしたかったので、たくさん、つんだのです!」 「そうか…… そなたらが、つんでくれたのだな。大切にいただくとしよう。感謝するぞ」 「母君がお好きなら、また雅雲と、つんできますね! それから、梓恩と寧凛に料理してもらいますから!」  皇后陛下は笑ってうなずき、目頭(めがしら)を軽く押さえた。あ。爪に、白い線が入ってるな。 「それは嬉しいが、学問や鍛練を怠ってはならぬぞ?」 「そんなこと、わかってますよ!」 「どうかな……?」  皇后はカタッと箸を置き、指をさすりながら、巽龍君に問題を出しはじめた。五経の暗記(基礎教養)ばかりでなく、各県の米と小麦の生産量だとか凶作の年の基本的な対処法だとか…… 難しい問題ばかりなのに、すらすらとよどみなく答える巽龍君。かわいいだけでなく、できる食いしんぼさんだったんだな。  だが、ついに()をあげた。 「私だけでなく、雅雲にも問題を出してくださいよ!」 「宝雲は、まだ、幼い。遊ぶのが勉強だ。なあ、宝雲?」 「はい。でも、いま、とくに詩経を…… 「雅雲だけ、ずるぅい!」  巽龍君(皇太子殿下)の絶叫に、皇后陛下はまた、からからと笑った。  そうこうしているうちに、朝の会議の時刻 ――  皇后と巽龍君は連れだって会議に参加し、雅雲君(弟殿下)(スウ)宮に、わたしと寧凛は昼食のしたくをしに東宮に帰る。 「失礼ですが、奥さま(皇后陛下)。最近、寝付けなかったり、夢見が悪く夜中に何度も起きてしまうようなことは、おありでしょうか」  去り際になにげなく皇后にたずねると、皇后は苦笑して 「そのとおりだ」 と認めた。 「おかげで朝すっきりと目覚められぬ…… 太医にも言われたが、(われ)も、もうトシということなのかな」 「いえいえ。まだお若くていらっしゃいますよ。春は体調を崩しやすいので、そのためでしょう…… お薬は、苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)でしょうか」 「そうそう、そんな名であった。なんでも、加齢による、めまいや耳鳴り、頭痛に利く薬であるそうな」  皇后と巽龍君(皇太子殿下)を見送り、雅雲君(弟殿下)と別れたあと。 「寧凛さん、わたし、ちょっと大理局に行ってきますんで…… 尚食から香芹(せり)と卵と韭菜(にら)と豚肉と麺を買ってきて、下ごしらえ始めててくださいね」 「梓恩さん、また職務放棄ですかっ!?」 「いえいえ。寧凛さんにも食材選びの目を磨いてほしいからこそ…… あっ、それから、檸檬(レモン)もお願いします」 「職務放棄する気、満々じゃないですかっ!」 「奥さま(皇后陛下)のご健康に関わることなのですが…… ダメ?」  上目遣いで念押ししてみる。寧凛、これされると弱いんだよね。今回もまた 「うっ……」 と迷ってくれている。 「もっ、もうっ……! しかたないですねっ! 下ごしらえ終わるまでには、帰ってきてくださいよっ」 「よかった。ありがとうございます、寧凛さん」 「帰ってこなかったら、職務放棄で上に報告しますからねっ」 「りょーかいです」  寧凛に手を振って、大理局に向かう。あ…… 今回はおみやげ(貢ぎ物)がなにもないな。しかたない。  いったん、東宮に戻ろう。  手ぶらで端木将軍に会おうとしていたことに大理局の入口でふと気づき、きびすを返したところで。 「おや、梓恩どの」  背後から、低い穏やかな声。この人の声、落ち着くんだよな…… たぶん前世の日本でなら、人気声優かアナウンサーになれてる。間違いない。  振り向くと、涼やかな目がほほえみかけてきた。 「皇太子殿下のお使いかな?」 「いえ、端木将軍に、お願いがありまして……」 「ん? いまは、()妃の案件も嵩妃からの申し立ても、ないはずだが……?」 「いや、違うんですよ。ちょっと太医院に伝令飛ばしていただきたくて」 「きみは私のことをなんだと思ってるんだい?」 「伝令飛ばしてくだされば、あとで檸檬排(レモンパイ)をお届けしますよ」 「よし、乗ろう」 「さすが端木将軍」 「じゃ、部屋に戻ろうか…… で、なんでまた、太医院なんだい?」 「それが先ほど、巽龍君(皇太子殿下)が皇后陛下をお見舞されたのに付き添ったのですが……」  並んで長官室に戻りつつ、わたしは皇后の状態を説明した。 「いま、皇后陛下のおもなご不調は、朝すっきりと起きれぬことと頭痛と耳鳴り、少々の(うつ)気分と懈怠(ダルさ)で…… 太医からは苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)を処方されていますが、言ってしまえば、診察不足なんですよね」 「ほう?」 「苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)は、茯苓(サルノコシカケ)桂枝(シナモン)白朮(オケラの若い根)甘草(かんぞう)を加えた方剤(ほうざい)で、水の巡りを良くして、よぶんな水分を体外に出す、といった働きが期待できますね。おもに痰濁中阻(たんだくちゅうそ) ―― 体内にたまったよぶんな水が(とどこお)り片寄っている状態のときにつかいます」 「水が片寄る、か……」 「はい。ぶっちゃけた話、実際に片寄ってるかはわかりませんが、同一の原因の複数の症状がこれで説明がつくことがあるんですよ。たとえば、頭に水が片寄れば、頭痛やめまい、耳鳴りが起こる、というように」 「? なら、その薬は、皇后陛下のご症状には良いのでは?」 「それが、ちょっと違うんですよ…… 太医は、皇后陛下のご症状から、ご加齢による腎機能の低下で痰濁中阻(たんだくちゅうそ)の状態になっている、と考えているようなんですが」 「違うのかい?」 「おそらくは。そもそも、皇后陛下はもともとご丈夫で、朝もスッキリ起きられるタイプ。油っこい肉料理やお酒を好まれはしますが、消化しきれずに溜め込むことはあまりなく、どっちかというと脾胃が頑張って消化するために熱を持ちやすくていらっしゃいます…… そうしたかたの頭痛や耳鳴りには、別のことも疑わなくてはなりません」 「ほう」 「先ほどのお見舞で皇后陛下は、お箸を2度、落としそうになられました。2度とも、うまくごまかしておられましたけれど」 「皇后陛下らしいね」 「はい。そのあと指をさすっておられたことから、おそらくは指の筋がこわばり、痛みがあるものと思われます。あと、爪に白い線が入っておられまして、もしかしたら、目も、ときどきかすまれてるかもしれません。しばしば、目頭(めがしら)を押さえておられたので。それから」 「まだ、あるのかい?」 「はい。少し前から、なかなか寝付けず夢見が悪く、夜中に何度も目をさましてしまう、と……」 「ああ、それでは、朝すっきりしないはずだね」 「はい…… これらは、(かん)(しょう)だと思います」  『肝』 は解剖学的な肝臓じゃなくて、血の状態に関係するまとまった症状と解釈しておくとわかりやすいと思う。中医学では肝の機能は血を蓄えることや、全身の血流量の調整とかだからね (あくまで個人的見解) 。  ちなみに 『(しょう)』 は診断と治療方針の両方をさすことば。なんだか厨2心をそそる(カッコいい)ので、使いたくなっちゃうのだ。 「皇后陛下は、体内に溜まったよぶんな熱のため、血から水分が失われてねばつき、滞りがちな状態かと。このために、じゅうぶんな栄養が末端にまで行き届かなくなった結果、筋がこわばり、目がかすみ、爪には白線が入るのです。頭痛やめまい、耳鳴りなどの症状は、この延長かと……  つまり、よぶんな熱による肝の証とするほうが、体内の水分の(かたよ)りと考えるよりも、全体的に説明がつくんですよね。  で、この証の場合には、そもそも熱で水分が失われていることが原因なので、体内の水を巡らせ排出する作用のある苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)は合わないのではないかと」 「なるほど…… だが、太医院にはきみの診立(みた)てまでは、伝えないほうがいいな」 「そうですね。彼らにも矜持(プライド)があるでしょうから。目と筋と爪のことを言っておけば、(かん)の証と診断してくれるでしょうし。肝の変調は目や筋、爪に現れますから」 「そうか…… では、私が皇后陛下に謁見したときに気になったこととして、伝えておこう」 「話が早くて助かります」  長官室についた。端木将軍がサクサクと、伝令用の紙にわたしから聞いたことを書き連ねていく。  前世でいう紙飛行機の形の伝令が、端木将軍の手から離れて太医院の方向へ飛び去るのを見送ると、わたしは拱手して頭をさげた。 「お手数をかけていただき、ありがとうございます」 「当然のことをしたまでだよ。皇太后陛下のご健康のためなのだから」 「のちほど、檸檬排(レモンパイ)をお届けしますね」 「大きめで頼むよ」 「了解しました…… では、これにて」  大理局をさがったあと、わたしは東宮に急いで戻った。  これから寧凛をいじり…… もとい、ツンデレっぷりをしっかり味わい…… じゃなくて。ほめて感謝しつつ、うちのかわいくてよくできる食べ盛りのお子さまの昼食と、大きめの檸檬排(レモンパイ)をつくるために。
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