閑話(2)~寧凛の夢~

1/1
前へ
/62ページ
次へ

閑話(2)~寧凛の夢~

【寧凛 視点】  ―― 木に、登っている。理由はとくに、ない。  ただ、上にいってみたいだけ。高く、より高く……  好奇心と願望につきうごかされるままに、幹に爪をたて、四肢を動かす。  太い枝について、やっとひといき…… だが、満足感を味わったのは、ほんの一瞬だった。  風がふく。枝がざわざわ揺れる。  地面が遠い。こわい。降りれない……!  不安が、頭とからだをしめつける。かぼそい声で泣くが、誰もきてくれない。  こわいよ、助けて、誰か助けて、こわい ―― 「…………!」  寧凛(ネイリン)は、はっと目をさました。  何年も前から繰り返し見る ―― この夢を見たあとは、じっとりと寝汗をかいている。  そんな体調だから、夢見が悪くなるんですよ。数ヶ月前に東宮の同僚になった、やたらと薬と医学に詳しい料理番なら、こう言うだろう。  だが、寧凛自身は、5年前の精神的外傷(トラウマ)のせいだろう、と思っている。  5年前 ―― 11歳だった寧凛は、父親に命じられた。 「こんど宮廷でな、第一皇子の学友 兼 侍従となれる少年を募集してるんだが…… おまえ、なれ」 「父上。僕が先日、郷試(きょうし)に合格したことは覚えておられますよね? 僕は来年には殿試に合格しますよ。そうしたら、史上、最年少で宮廷役人です。僕は、皇子の学友より、自分の力を試してみたいです」 「まったく…… おまえが長子であれば、我が家は安泰、間違いなしなのにな」  父親はため息をついた。 「だが、このままでは、おまえの兄の立場がなくなってしまう…… それに、皇子の学友として覚えめでたくなれば、その辺の役人よりも、よほど高い地位に行ける。家のためにも、そのほうが良い」  「ですが……」 「これは命令だ、寧凛。いやなら、親子の縁を切る」 「…………っ」  あとになってみれば、父親との縁も家との縁も、別に切れても良かったのだ。  あそこをちょん切られる、屈辱と比べたら。  ―― だが、そのときには、皇子の学友兼侍従とはそういうことだと、寧凛は理解していなかった。  父親の強い言葉に驚き、ただ、素直にうなずいてしまったのだ。  理解したのは、蚕室まで連れて行かれてから…… 彼はそのとき初めて、泣き叫んで嫌がった。  成人であれば、その覚悟がないものが、ちょん切られることはない。だが、寧凛はまだ少年であり、親が許可している以上、本人の意志は問題にならなかった。  施術のあと、高熱でうなされながら父親への復讐を誓う ―― そのあいまに、寧凛は初めて、あの夢を見たのだった。  夢では、いつもひとり。高い木のこずえで震えているところで、目が覚める。  目が覚めても、まだ動悸がしている。不安と孤独…… それらはやがて、己の意志を無視し人生を変えた父と家への、怒りと憎悪にかわる。  感情が、からだのなかを荒れくるう。息が苦しい。動けない。ただ、うずくまって呻くだけ ―― (このままでは、いけない)  寧凛がときに、こうなってしまうことに最初に気づいたのは、巽龍君だった。当時まだ7歳だったこの皇子は、特に事情をたずねることもなく、こう言った。 「寧凛、もう少し休んでいて良いぞ! 昨夜(ゆうべ)は、よく眠れなかったのだろう!?」  ―― このときから寧凛は、この(あるじ)に一生お仕えしようと決めたのだ。  だが忠誠心と、胸の底に残り続ける ―― 恐怖、屈辱、怒り、そして憎悪は、また別のもの。  宦官になって、5年…… 寧凛はまだ、あの夢から逃れられない。 (なんとか、しないと……)  胸をおさえて腕を伸ばし、壁にかけてある上衣をとると、寧凛はそれを頭からかぶった。  ほのかな薬草のかおりを何度も吸い込み、ほっと息をつく。  前の秋から、巽龍君(皇太子殿下)の料理番として後宮にきた宦官 ―― 梓恩(シオン)のにおいが、動けなくなるほどの激しい感情をなだめてくれると知ったのは、偶然だった。  皇后のお茶会に招かれてるのに、そのまま(作業着)で行こうとする彼を引き止め、上衣を貸した…… 返してもらったあとまた、あの夢をみて。  襲ってくる感情から逃れようと、やみくもに壁に頭を打ちつけていたとき、気づいたのだ。あの上衣のそばでは、ふっと嵐が()ぐことに。  ―― 依存が止まらなくなるのに、時間はかからなかった。  とりあえず、自作の絵姿を(ベッド)のまわりに飾った。いちばん良い出来のものが枕元だ。  そして、手が伸ばしたらすぐにとれる位置に、あの上衣をかけた。  依存対象が妃や女官ではなく、ときどき胡散臭(うさんくさ)い料理をつくってはドヤってる同僚だと思えば、心境は複雑だが…… ぜいたくは言っていられない。  寧凛にとってもっとも大切なのは、心身の健康を保ち、しっかりと(あるじ)に仕えることなのだから。 (におい…… 薄れる前に、またなにか理由をつけて、上衣貸せるといいんだが……)  考えていることが変態くさくても、それも仕事のためなのだ。気づかれなければ、問題ない。  その、はずだった ――  うららかな早春のある夕方、(あるじ)がこう命じるまでは。 「今日は、梓恩は寧凛の部屋に泊まるとよい! たまにはふたり、親交を深めるがよかろう!」  冗 談 じ ゃ な い 。  とは思っても、善意あふれる主の命令に反することなど、とてもできなかった。  かくして、その夜。 「あっあの! ちょっと待ってくださいね! 片付けてきますっ!」 「どうぞ、ごゆっくり」 「ゆっくりするほど、散らかってませんからっ!」  急いで絵姿を隠し、以前に飾っていた 『臥薪嘗胆』 の額を掛けて、部屋に梓恩を招き入れた寧凛は ――  まっさきに上衣のことをツッコまれて、冷や汗をかくことになったのである。 「申し訳ないんで、もう一度、きれいにしてみましょうか?」 「これがいいんですっ…… ちが、別に、けっこうですっ!」  そんなことされて匂いが薄れたら、僕は今後、なににすがればいいんですか! ―― とは、とても言えない。  その後も、なんだかギクシャクした会話が続く。  別に 『梓恩のにおい』 愛好家(フェチ)ではない、とアピールをするために 『風呂屋に行かないんですか?』 と尋ねてみたら ―― なんか、変な笑いかたをされた。  まさか、バレてる……? 「風呂屋には慣れてないので、今日は、いいです」  バレたうえで、温情かけられてる!?  ―― わけがないか…… だが、かくなるうえは。 (ぜひとも(ベッド)を使って、においをたっぷり、つけてもらわなければ!)  こう考えたからといって、変態ではない。あくまで、今後の仕事のためなのだ。  で、押し問答を繰り返し ―― 「梓恩さん! この線から越境したら、ダメですよ! ぜったいダメですからねっ!」  ということに、相成ったのだった。  嬉しいといえば嬉しいが、うっかり、バレてはいけない。とくに、梓恩のにおいに癒されていることは、ぜったいに秘密にしなければ。  寧凛は必死で寝たフリをし、いつのまにか、ほんとうに眠ってしまっていた。  ―― また、あの夢だ。  わかっているのだから、登るのをやめれば良いと思う。なのに、どうしてもやめられない。  手足が勝手に動いて、寧凛を上へ上へと追いたてる。  気づけばひとり、風のなか……  知らないお姉さんの声が聞こえたのは、そのときだった。 「えっ、猫ちゃん? えっ、どうしよう!」  お姉さんは、カバンからよく磨かれた石と金属でできた板を取り出して、いじりはじめた。 「もしもし、消防署ですか? …… えっ、1時間? か、もっと? …… あ、はい、すみません。あの、できれば早めに…… あ、はい、すみません……」  板をカバンにしまうと、ふう、と息をはいて木の根元に置く。 「猫ちゃん! いま、そっち行くから、動かないでね。お姉さん、こわいひとじゃないからね」  いうなり、木の幹にとりついた。助けてくれる気なんだ…… ほっ、としたのは、一瞬だった。  めちゃくちゃ木登りヘタじゃん、お姉さん。 「うわっ、こわいよー」 「木登りなんて、小学生以来だよ……何十年よ」 「ぜったい明日、筋肉痛確定」 とブツブツいいながら、登ってくる。  みてるこっちが、ハラハラしちゃうよ……! 「ふう、ついた! 猫ちゃん、もう大丈夫だよ! 消防車くるまで、一緒にいてあげるね」   抱っこしてくれたお姉さんの胸は、ほのかな薬草のかおりがして…… 知らないお姉さんなのに、なんだか懐かしい。  ありがとう、お姉さん。  僕も、いつか、お姉さんを助けてあげるね。  僕は、お礼の気持ちをこめて、お姉さんのあごをペロっとなめた ―― 「寧凛さん!? ちょっとそれは! ちょちょちょちょ…… ちょっと! 寧凛さん! ……いいかげん、起きてください、寧凛さん!」 「……にゃ? ………… わぁぁぁぁぁああ! 梓恩さんっ!」  目がさめてみたら、寧凛は、お姉さんじゃなくて同僚にペロペロしてた。  お わ っ た ……  だが、まだ、ごまかす方法はある!  全力で気づかなかったフリ! そして、やみくもなツン! 「梓恩さんっ! 僕が越境してるのに、なんで、つきとばしてくれないんですかっ!」 「いや普通、それ、できます? 人として」 「全・然っ! できますっ!」  あれ、でも、梓恩さん…… ペロペロしたのに怒ってないな? これって、もしかして……  寧凛の心臓が、どくん、と跳ねた。 (ないないないないない! ぜったい、ないからっ!)  真っ赤になって首を横に振る、寧凛。  ―― その朝。  寧凛は、この優しい同僚に、とりあえず、怒り続けてみせたのだった。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

146人が本棚に入れています
本棚に追加