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6-2. 梓恩、薬を盛る
莉妃の作った人形をいちどは拒んだ珠妃だが、結局は皇帝の一存により、受け入れざるを得なかった。あげく、珠妃は退席。
―― もしや、寵愛の比重が変わったのでは……
そんなふうにも受けとれそうな、このたびの一件。
けど、じつはそうでもないことは、すぐにわかった。
珠妃の妊娠が公表されたのだ。
「皇帝陛下に、お祝い申し上げます。私どもも、きょうだいの誕生を待ちわびております……」
まずは、巽龍君と雅雲君が一緒に進みでて皇帝にお祝いを述べ、詩を吟いはじめた。
『常棣之華 鄂不韡韡
凡今之人 莫如兄弟
……』
(庭の桜が枝を同じくして咲き誇る
およそ今の人よ、兄弟にまさる存在はない……)
宴席などでよく吟われる、詩経の小雅 ―― 内容としては、兄弟最高、って感じの詩だ。
この場では、兄弟仲の良さをアピールして雅雲君派をおさえつつ、やがて生まれるだろう珠妃の子を歓迎する意も含まれてるんだろう。巽龍君、さすがのチョイス。先日、皇后に大きな口を叩いただけある。
次に、皇后を代表とした妃たちの、お祝いの挨拶。
みんな、意外と平静だ ―― もしかすると嵩妃や皇后あたりは、事前に珠妃の妊娠を知っていたのかもしれない。
そして莉妃は、ほっとしてるみたいだった。たぶん、さっきの珠妃の反応はつわりのせいだと思ったんだろう。席に戻ったあと、あらためて、流し雛についての説明を始めたようだ。
それぞれの妃の反応は、遠目から見るに、たぶんこんな感じ。
琅妃 「面白そー!」
禧妃 「…………」 (どう反応したものか困って盃をくいくい)
碧妃 「ふん。まあ、もらっておいてやろうぞ」 (内心は嬉しい)
で、嵩妃は複雑な表情…… ちょっと前に、この流し雛を呪い人形と間違えて騒ぎ立てちゃってるからね。気まずいんだろう。
―― でも、あれから嵩妃は蕁麻疹も治って、性格もちょっとだけ穏やかになった。
莉妃の努力のかいもあってか、なにかあるとすぐ莉妃のせいにしたがる癖もなくなってきたし……
これからは、莉妃が断罪とかされない、平和な後宮になるといいな。
「梓恩さん! そろそろ鯛をお出ししてください!」
「はい、わかりました」
女官に声をかけられ、わたしは急いで厨房に戻ったのだった。
宴は、皇帝と皇后、妃たちが雛を錆水に流してお開きになった。
もともと、この川辺で宴をすること自体に 『穢れを水に流す』 意味がある。それが、最後に流し雛をすることで、よりはっきりとした感じだ。
皇帝にも皇后にもほめられて、莉妃は恐縮しまくっていた。
宴の片付けが終わり、あまったごちそうを召し使いたちが分けあったころには、もう人定終刻 ―― だいたい、夜の11時ころ。
これから、わたしは街の家まで帰るわけだけど…… そのまえに、司薬に寄らなきゃ。
なぜなら、義兄が明日から、いよいよ科挙の本試験だからだ。まあ義兄なら持ち前のブラックユーモアで乗り切りそうだけどね。
ともかく、家族としてできる応援は、してあげたい。
わたしは宴会場をあとにすると、通用口とは逆の方向に歩き出した。
※※※※
「梓恩!? なんでこんな時間にいるんだ?」
「昨晩は宴の担当だったので、今朝は遅出の許可をもらっています。おはようございます、博鷹兄さん」
宴の翌朝。
わたしはめずらしく、少しのんびりしていた。
『宴会のあとなんて、どうせ戻るの真夜中で、朝にはポンコツになってるでしょうから!』 と、寧凛が巽龍君の朝食をひとりで作る宣言をしてくれたおかげだ。成長したなあ、寧凛。
「じゃ、朝ごはんにしましょうか、兄さん」
わたしは卓に、ふたりぶんの朝食を並べる。今朝のお粥は鯛と香芹と卵。鯛は昨日の宴会で余ったのね。
義兄が不思議そうな顔をした。
「いつも 『いろいろなものを少しずつ食べるのが養生』 とか力説してる割に、ここのとこ、ずっと魚と卵だな……?」
「科挙対策ですよ。魚も卵も、集中力や記憶力、判断力を助けるといわれていますから。はい、付け合わせに、くるみと小魚の甘露煮。よく噛んで食べてくださいね」
くるみも中医学では脳にいいことになってるらしい。栄養豊富だし、よく噛まなきゃ食べられないあたりが、その理由かな。噛むと脳の働きがよくなるもんね。
わたしは片手で甘露煮を配りながら、片手で義兄の参考書を取り上げる。
「あと、食事中の勉強はやめてください」
「横暴だぞ、梓恩。今日これから本番なのに…… って、なんで、そんなところにつっこんでるんだ!」
「ふっ…… いくら博鷹兄さんでも、女性の衿に手をつっこんでまで、参考書を取り返そうとは、しませんよね?」
「くっ…… 万年、美少年顔の色気皆無のまな板のくせに……」
口ではこんなことを言ってるが、義兄はけっこう、紳士だ。うらめしそうに、わたしの胸もとをにらむのが精一杯だろう。
わたしは本で膨らんだ袍の胸元を、ぽん、と叩いた。
「朝食が終わったら返しますよ、博鷹兄さん」
「ひどいぞ。昨夜も、梓恩が入れてくれたお茶を飲んだら急に眠くなって、予定が…… ん? 梓恩!?」
やっと気づいたか。
「梓恩、おまえ、何を盛ったんだ!?」
「母菊、菩提樹花、香茅、薫衣草のお茶ですよ。催眠効果は、たいしたことないはずなんですけど。あれで爆睡ということは、よほど疲れてたんでしょう。熟睡できて良かったですね」
「もう一度、書経を暗誦する予定だったのに……!」
「兄さんくらい勉強していたら、試験前はしっかり眠ったほうが、結果は良くなるはずですよ?」
「忘れてたら、どうするんだ!」
「大丈夫ですよ。いつもの兄さんしか面白くない厚かましくて失礼な冗談で、乗りきってください。ただし試験官には言わないほうがいいですよ。通じなくて心証を悪くする可能性が高いです」
「そんなふうに思ってたのか……」
「今まで、あれだけ人を怒らせて、まだ気付かないのが重症ですね」
「ぐっ……」
ショックだったみたいだな、義兄。でも、言っとかないと面接で落とされそうだし。
朝ごはんを食べ終わると、わたしは土瓶を火からおろした。朝食前から、コトコト煎じていたのだ。
ふたをしていない口から漂う、くせのある甘い匂い ―― 桂皮、芍薬、生姜、大棗、甘草。それに葛根と麻黄を加えた、いわゆる葛根湯ね。
昨晩、家に帰る前に司薬に寄ったのは、この薬をもらってくるためだったんである (誰もいなかったから、勝手にとってお代だけ置いてきちゃったけど) 。
基本、わたしは、薬をこういうふうに使うのは養生じゃないと思ってる…… でもまあ、ここ一番の試験のときくらいは、いいんじゃないかと。
「博鷹兄さん、これ、緊張が適度にほぐれて、集中力が増すかも…… な、お薬ですから」
つまりは軽いドーピング狙い、という。
葛根湯に含まれる桂皮や葛根で血行を良くし筋肉のこわばりをほぐして適度にリラックスさせ、麻黄に含まれる覚醒成分で気分をシャキッとさせるのだ。摂りすぎはもちろん危険だから、適量ね。
わたしは、袍の胸元から丸めた参考書を引っ張り出し、土瓶と一緒に義兄の前に置いた。
「試験行く前に薬、飲んどいてくださいね、兄さん。そのために昨日わざわざ、取りに行ってあげたんで」
「おう、ありがとう…… まあ、全然、効かなかったとしても安心しろ。いつものことだからな」
「だから、そういうとこですよ、兄さん」
「お、おお…… そうか……」
「今日の筆記は兄さんなら大丈夫ですから、来月、口頭試問と面接までに、なおしておいてくださいね…… じゃ、行ってきます」
外に出ると、空はすっかり明るくなっていた。いつもは星を眺めながらの出勤だけど、今日眺めるの薄雲のかかった春らしい空……
なんか、別世界みたいだ。
市場に行く人帰る人で賑わう通りを、わたしはゆっくりと歩いていった。
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