7-2. 梓恩、船にのる

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7-2. 梓恩、船にのる

梓恩(シオン)おまえ、もう宦官やめるって言ってたじゃないか」 「言ってません。博鷹(ハクオウ)兄さんの、聞き違いですよ」 「だからって、二十日もいなくなること、ないだろう」 「もしかして、寂しいんですか、兄さん?」  からかい半分に聞いてあげたら、義兄は絶句したあと、おずおずとうなずいた。いやちょっと待て。  そこはアナタなら 「ま、おまえもその辺の虫よりはマシってことだな」 とかいう、腹立つ返しがあるところでは……  と、わたしのほうがかえって絶句してしまう。  ―― 湯治旅行、当日の朝。  うちのユーモア感覚が独特な面倒くさい義兄は、なんだかかなり、おかしかった。  まあ、おかしいといえば、最近ずっとだけど。なにか言いたげにこっちを見てるくせに、目があったら慌ててそらされたりとか……  科挙の殿試(口頭試問と面接)を無事にクリアして、中書省の役人になったあたりからだから、たぶん慣れない宮仕えでストレスたまってるんだろう。  中書省は皇帝の詔勅を記録する部署 ―― 新人のなかでは出世頭なのでは、と思うのだが、本人は 『つまらん筆記係』 だとか言っているしね。 「兄さん、抑圧(ストレス)には、豆腐に胡麻(ごま)乾果(ナッツ)、それから色合いの濃い野菜ですよ。わたしがいなくても、しっかりとって、よく眠ってくださいね。眠れないときその他の不調は、司薬の()宦官に聞けば、なんとかしてくれると思いますから」 「おう…… あのさ、梓恩」 「なんですか?」 「宦官やめて、俺と 「あっすみません、もうそろそろ行かなきゃ間に合わないので! じゃ、行ってきます!」  旅行用に多めの着替えが入った包みを抱えて、外に飛び出す。空はもう夜の色が薄くなって、端っこのほうが、ほんのり明るくなっている ―― この時間、冬は満天の星空だったのにな。   夏の近づく気配って、なんだかわくわくする。  それも、転生以来、始めての温泉だ。宦官になって、ほんと良かった。  旅行は妃たちの宮のすぐそばを流れる、錆水から始まった。  陸路よりも水路のほうが便利だと、皇后陛下が船をどーんと貸してくれたんである。4層建て、全長約600mくらいの豪華船だ。  皇后ご自身は、留守番なのに…… なんて太っ腹。   「おう、梓恩! 寧凛(ネイリン)! 雅雲()! 見よ! 魚の群れだぞ!」 「はい、兄さま! きれいな鳥も、いますよ」  はしゃぎまくる巽龍君(皇太子殿下)雅雲君(弟殿下)。  欄干から身を乗り出すようにして、やや赤みがかった水を覗き込んでいる。 「この水が黄色みを帯びて、岸が見えぬほどに広くなったら、央河でございますぞ」   教育係の大臣が説明すると、ふたりの目はますます輝いた。 「岸が見えぬのか!? 噂にきく、海のようではないか!」 「ほっほっほ。海ほどではないですが、殿下がたも驚かれることでしょう」 「たのしみですね、兄さま」 「うむ!」  期待できらきらしてる子どもたちの顔…… めっちゃ尊い。見てるだけで、幸せ。  街を抜け、遠くに、出たばかりの小麦の芽で淡く色づいた平原を眺めながら、船はゆっくりと進む。水と風の仙術で動いているエコ仕様だ。  揺れも少なくて、これなら ―― 「うっ」  雅雲君(弟殿下)が急に口もとを抑えた 「どうした、雅雲!?」 「う…… 兄さま。なんだか、きもちわるいです……」  おおっと。乗り物酔い、キターーー!  どんなに揺れが少なくても、乗るだけで酔っちゃう子いるからね……  後宮にいると移動はほぼ徒歩 (輿(こし)が使えるのは皇帝・皇后だけ) なんで、5歳の雅雲君には、この船が、たぶん初めての乗り物だ。  巽龍君がわたしを見た。 「梓恩! なんとかせよ!」 「はっ、かしこまりました…… 失礼いたします、二の坊っちゃま(弟殿下)」  ひざをついて雅雲君の手をとる。  うん、ちょっと冷えてるから…… 船の揺れで、体内の巡りが悪くなってるんだろうな。  ぷにっと小さな手の、中指の先。手のひら、中指と人差し指の骨のあいだ。手首の関節の真ん中あたり。そのまま、腕の内側を上にさかのぼる ―― ツボを探しながら、ゆっくり順番に押さえて、ほぐしていく。  何度か繰り返すと、手にぬくもりが戻ってきた。ぷにぷにあったか。 「あ…… なんだか、治ってきました」 「それは、ようございました。念のため、お薬もお飲みくださいね」  こんなこともあろうかと用意しておいたのは、五苓散(ごれいさん)。前世の日本でも、乗り物酔いの予防薬として有名だった。あと、二日酔いにもオススメ (by司薬丞・()宦官)。  体内の水のバランスが急速に悪くなったとき、使う薬なのだ。 「毎日お飲みくだされば、船に酔いにくくなると思います」 「はい! ありがとうございます、梓恩さん」 「うむ! よかったな、雅雲()!」  このあと巽龍君(皇太子殿下)雅雲君(弟殿下)は部屋に行き、六博(すごろく)を始めた。  皇子殿下の部屋は最上階で、厨房つき (ちなみにほかの妃たちの部屋は下の3階) 。  わたしと寧凛は早速、昼食の準備にとりかかる ――  雅雲君の船酔いにあわせて、食事は生姜を多めにし、吐き気をおさめる効果を狙う。 甜点(デザート)は蜂蜜梅の果凍(ゼリー)薄荷茶(ミントティー)だ。  「ほんとうは、蜂蜜梅より、もっと効くのがあるんですけどね…… この国では見たことがないんですよね」 「それ、梓恩さんは、作れないんですか?」 「いやぁ。長年、存在を忘れてまして。思い出したの、去年の秋くらいなので。まぁ当面、放置でいいかと」 「……っ! 召し使い失格……っ!」 「てへ」 「てへ、じゃありませんっ」 「こんど、一緒に作りましょうよ、寧凛さん。もうすぐ、その季節ですから」 「ふ、ふんっ……! しかたありませんね、もうっ」  船の上でも絶好調のツンデレ、あざます。  その夜、満月が中天にかかるころ、船は央河に入っていった。  どこまでも波打つ水に、白い月と船の灯がうつって、揺らめいている。 「きれいですね、兄さま」 「うむ! 母君にも、見せてさしあげたい!」  幻想的な夜の風景に見とれている兄弟に癒されていると、階下から琵琶の音と(ロウ)妃の明るい声が聞こえてきた。  妃たちは妃たちで、女子会してるみたいだな。 「そうだ。(ヘキ)妃さまに、この景色を描いていただいて、奥さま(皇后陛下)にお贈りしては、いかがでしょう」  提案すると巽龍君(皇太子殿下)は、嬉しそうに大賛成してくれたのだった。  こうして3日間の、のんびりした船旅のあと ――  わたしたちは碧妃の地元に到着した。  その晩は碧妃の実家に泊まらせてもらい、翌日、輿にのって黄老山に出発。黄老山は、(ヘキ)地方と(ロウ)地方のちょうど境にあるのだ。  温泉、楽しみだな。 
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