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田代のギャラリー
神主さんとの突然のお別れは思いもかけないものだった。
母の祖父の看病のための東京行きは単なる言い訳だったらしい。いつの間にか両親の離婚が決まっていた。
両親はもともとそんなに仲がいい方ではなかったけれど、だからと言って喧嘩ばかりをしていたりとか、冷たい空気が二人の間に流れているとかを私は嗅ぎ取れなかった。確かに父は仕事で家にいないことが多かったけど、家に居る時は優しい父で。でも今なら分かる。父が仕事で忙しいばかりではなかったことも。
私が両親の異変に気付かなかったのは、母の演技力によるものが大きかったんだと思う。もしくは母が演技に疲れた時、看病と称して家を空けるようにしていたとか。
もうどうでもいいことだけど。
両親の離婚後、私は母に引き取られた。だからこの地を離れることになったたのだ。母は元々家庭に留まるよりも外に出て働きたいタイプだったのかもしれない。中学受験に向け私が塾通いで夜遅くまでかかるようになった頃、母は働き始めた。私が中学に入る頃には母はセカンドキャリアを確実に歩み始めていた。おかげで私は財政的な負担を気にすることなく大学まで私立の学校にいけたわけだし。そして高校の頃になると母にも恋人がいることが分かってきた。母のためにも家を出たほうがいいのかなと考えたりもした。
相変わらず、絵を描くのは好きだったけど自分の才能に確信が持てなかった私は、社会人になったとき潰しがきくと言われていた経済学部に進学。それでもやはり絵は諦めきれず、大学でのサークルは緩めのアート系に所属した。
そこで山崎先輩や日奈に出会い、山崎先輩を通して田代航に出会ってしまうことになるのだけど。田代は私の初カレだった。山崎先輩とタメだった田代とは大学は違うのに、よく部室として割り当てられていた教室や飲み会で会うことがあった。田代のどこに惹かれたのか、今となっては定かじゃないのだけれど、多分1番の理由は私の絵を「いい絵だね」と飾り気のない言葉で褒めてくれたから。正直に言えば、学生の頃から少し惹かれていたのかもしれない。でもその頃の田代には複数のガールフレンドがいると聞いていたし、そんな彼に警戒と気後れ感があった。
田代自身、絵は鑑賞する側だと言っていた。山崎先輩によると、田代は美大に在籍しているけれど、自分で書くことには執着しなくなったと言っていた。それは周囲の化け物みたいな天才たちの絵を見ているうちに、気圧されたことが大きかったらしいと聞いた。でも田代はそれで終わらなかった。自分の才能にはあっさりと見切りをつけたけど、彼らの才能をどう世に出すかというほうに自分のキャリアの舵を切り直していたのだ。先輩も彼の審美眼は確かだと言っていた。田代は学生の頃から起業し、オンラインでのスモールアートの販売など足掛かりを作っていった。要はプロデューサーとしての才能の方があったということらしい。
私の絵は、一応彼の第一次審査には辛うじて合格することができていたということなのだろう。私の学生時代は絵を描いていた思い出しかない。勿論、進学するための最低限の単位はきちんと取得していたし、成績だって悪くはなかった。だから就職先だって、一応大企業の広報部門で宣伝資材の担当になったし。
田代の預かりになっていた私の学生時代の作品が「売れたよ」って田代からたまに連絡が入るようになったのは社会人3年目くらい。学生時代も展覧会に出品して入賞したりすることはあったけど、無名の画家の作品に値段はつきにくいことはよく分かっていたから、売れたと聞いたときは純粋に嬉しかった。自分の作品に値段がついたという喜び。それでも絵具代や保管スペースを考えると、やっぱり絵1本でやっていくのは難しい。でも働いていると自由に描ける時間は限られる。そのフラストレーションの渦中に私はいた。
そんな私を支えてくれたのが田代だった。
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