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母だったのか、祖母だったのか、はっきりとは思い出せない。あるいは母と祖母の目が抽象された、「保護者の目」とでもいうべきものかもしれない。父でないことは確かだ。母自身、私の父親がだれであるかわからないのだから。
遠くに海の音が聞こえていたように思う。ひょっとしたら森のざわつく音だったのかもしれない。とにかくそれは途轍もなく広いものの、大きいものの音だった。おぶわれていたのか、乳母車に乗せられタオルケットをかけられていたのか、小さな自分のからだが何かに軽く圧迫されていたように記憶している。
母だか、祖母だかが熱心に話しかけてくれていた。赤ん坊の泉水には当然理解できなかったはずだ。泉水ちゃん、といってくれたのか、ただ泉水と呼んでくれたのか、記憶は当然あいまいだけど、その声の響きは優しさそのものだった。優しさの原型。
愛されていた。
包まれていた。
平和の真っただ中にあった。
わたしは世界で一番かわいくて、わがままで、無垢で、なんといっても無敵だった。世界を抱きしめていた。世界に抱きしめられていた。わたしと世界はひとつだった。
わたしは世界で、世界がわたしだった。優しいまなざしはわたしの世界そのもの。眠たかったけど、その優しいまなざしを、声を、全身で受け止めたかった。だって、それは自分自身だから。
その感覚がまだ自分の中にある。それは自分が今もってなお処女であることと無関係ではないような気がする。「平和」「わがまま」「無垢」──そういったものは「処女性」のシノニムかもしれない。いや、言葉でなくて、感覚でそれがわかる。赤ん坊の自分が水飴のようにどこまでもどこまでもダラーンと伸びてゆき、今の自分につながっている、その感覚で。
東条先輩とつながることが、平和だったあの時を取り戻すことに違いない。東条先輩こそわたしの「平和」。「わがまま」を、「無垢」を、「無敵」を保証してくれるだろう。だだ東条のまなざしが、声が、優しさが、わたしそのものであってほしいのだ。抱きしめて抱きしめられる関係でありたいのだ。それが下腹部の小さな穴の小さな膜を貫くことの意味ではないだろうか。
それはもう一度赤ちゃんに戻ることでもある。貫かれることが赤ちゃんに戻ること。矛盾してる? でも泉水は渇望してるのだ。
女の股間をのぞき込んだ時の彼の泣きそうな表情を思い出す。あれは奪う者の目ではない。わたしに優しく呼びかけ、あやし、柔らかくなでてくれる人の目だ。母の瞳。祖母の瞳。彼の瞳はわたしの瞳。彼の思いはわたしの思い。
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