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「……あっ、マイク」
「ありがとうございます」
ファンが求める距離感は様々。アイドルと触れ合える距離に魅力を感じる人もいれば、ずっと遠い存在であってほしいという人もいるはずだ。じゃあ、お茶の間ファンの僕はどうだろう。家という限られた空間では、あまり感情に起伏が生じることはないし、基本的に近づくことも離れることもない。届かない、叶わないと分かっているからこそ、どこか自由に構えていられるし、安心感のようなものに守られている。
「おはようございます。今日から実習でお世話になります……」
遠いけど近いし、近いけど遠い……そんな矛盾した距離感が心地よかった。コンサートやイベントへ足を運ばなくても、家で応援するだけで十分。会いに行ってしまったら、きっと何かが変わってしまう気がするから。
ただ、そんな距離感が崩れてもおかしくない状況が迫っている。お茶の間ファンのスタンスを変えたわけじゃないし、変わってほしいわけでもないのに……築き上げてきたものが勝手に壊れてしまいそうだ。
「教科は数学で、卓球部です。どうぞよろしくお願いいたします」
一方的な思いであれば、こちらの都合だけで相手の理想像を描き出すことができるけれど、コントロールできない相手の要素が加わったらどうだろう。もしかしたら、現実とのギャップに冷めてしまうかもしれない。相手を無意識に美化して、幻想を膨らませていることに気づいてしまうかもしれない。
決して深い関係になることを否定するわけではないけれど、その過程で複雑さを帯びていく人間模様が怖かった。相手のことだけでなく、自分のことを深く知られるのが怖い。それによって、傷ついたり傷つけられたりすることが怖い。
「5人の先生方、ありがとうございました。
……今日から2週間ないし3週間、よろしくお願いします」
そもそもアイドルは偶像であって、虚像の上に成り立つものだと思っている。だから、実像を見出す必要はないし、そもそも実像なんて存在しないはずだ。同じ日常に存在しているかもしれないけれど、絶対に手の届くことなんてないのだから。いそうだけどいない、近そうで遠い存在がアイドルなのだから。
なのに、それなのに……虚像であろう人が目の前にいる。手を伸ばせば、本当に届きそうなところに存在している。今は教育実習生なんだと頻りに言い聞かせたって、そう簡単に切り替えられるわけないよ。
「先生方は、来週の体育祭にも……」
男性アイドルにだって男性ファンはいるけれど、僕のように恋愛感情を抱いている人は少ないだろう。その線引きは自分でも曖昧だけど、憧れや尊敬という言葉で「好き」の感情を覆い被せていた。懸命に何かを押し込めるように、隠すように。楽曲が好きだということを前面に出しつつ、余所行きのシナリオを携えて。
「では、降壇してください」
ファンになるきっかけや理由は様々だと思うけれど、僕の場合は去年の春に放送されたBLドラマが入り口。そこに出演していた一煌くんのことが気になり、色々と調べたのが始まりだった。BLドラマを目にする機会が増え、それと比例するように僕が知らない俳優さんに出会うことも多くなっていく。俳優が本職の人はもちろん、普段はボーイズグループに所属している人も多いだろうか。そう見えているだけかもしれないけれど、俳優の顔を持つアイドルはどんどん増えている気がする。
「諸連絡のある先生はいらっしゃいますか?
…………はい、以上で全校朝会を終わります」
これまでも気になって調べた人はいるけれど、一煌くんの場合は何かが違っていた。彼がボーイズグループのメンバーであることを知って、色んなギャップを感じて……気づけば、どんどん惹きこまれていく。心を唆る風が吹き抜けたあの日から、僕の日々にはいつしか彼の存在が組み込まれていった。色んなコンテンツを梯子して、気づけば底なし沼に引きずり込まれていく。
「じゃあ、先生方は担当クラスのホームルームに入ってください」
彼の所属する「Vernazul」は、厳密に言うとダンス&ボーカルグループらしい。ただ、僕のなかでは揺るぎないアイドル。正直なところ、そのあたりの定義や違いはよく分かっていないけれど、僕にとっての一煌くんは存在するかどうか分からない人。仮に存在しているとしても、手の届かない世界にいる人。
アイドルやアイドルの語源が持つ「偶像」「幻影」といった意味に触れても、そこに憧れを抱いていると考えても、やっぱり彼はアイドルなんだという結論に行き着く。いや、そんな難しく考えなくても、雰囲気やパフォーマンスから描き出されるものがアイドルだった。ただ、今日をきっかけにその言葉は揺らいでしまうのかもしれない。
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