第二話・表と裏

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 こんな僕が彼女とつり合うとは思えない。鏡に映る自分の姿を見て浮かんだ劣等感は、ソースを落としたあともアクリル板の表面に残る油分のようにいつまでもこびりついて離れなかった。  同時に、空いた穴から引かれた長く白い亀裂が、アクリル板の前面を横断していることにも気づく。今朝まではなかった傷だ。  そもそも、彼女は僕を水槽頭として認識しているのだろうか。  おそらく答えはノーだ。彼女の接し方は普段と変わらないし、この異変に動揺している様子もない。  だがそれも、いまのところは、である。僕があるとき唐突に自分の変化を知ったように、彼女も世界がおかしくなっていることにいつ気がついても不思議ではない。  そうなったとき、彼女は僕を見捨てずにいてくれるだろうか。  彼女を失いたくない。疑問に対する答えというより願望が頭に浮かぶ。  どうすれば元の姿に戻れるのだろう。さらに浮かんだ願いであり疑問を、しかし僕はすぐに打ち消した。  あちら側に戻ることはもうできない。水槽頭になった最初の日、この変化を受け入れたのはほかでもない僕自身だったではないか。  それにもし元に戻る方法があったとして、その機会は水槽頭として漫然と過ごした数日のあいだに失われてしまったのだろう。  愛と傷は同じだ。その深刻さ、重大さを自覚した瞬間、激しく痛みだすという点において。  そういうものだ。洗面台を両手でつかみながら、僕は常備薬でも飲みくだすかのように心の中でそう繰り返した。  だが同じ言葉であるにもかかわらず、いまこの考えを受け入れるためには鉄球を丸ごと飲むような思いきりが必要だった。 「ねえ、本当に大丈夫?」  トイレから戻ると、恋人が僕にそう訊ねてきた。  頷こうとしたところで、またぞろ隣のテーブルに目を向けてしまう。カップルの女性の水槽頭に亀裂が入っているのが見えてしまったのだ。僕のものとは違う、亀裂は女性の水槽頭の側面を縦半分に割るようにぐるりと走っていた。  亀裂は見ているそばからさらに深くなり、とうとう一つだった水槽頭を二つに割ってしまった。  いや、形そのものは保ったまま、まるで泡が分かれるように半分ずつの大きさで二つの水槽頭ができたと言ったほうが正確なのかもしれない。そうして身体の前面と背面にそれぞれ配置された水槽頭が、別々の映像を流しはじめた。その一つにはこれまでどおり注文した料理が映されていたが、背面側のもう一つには暗闇に浮かぶ唇があらわれていた。  その唇がぱくぱくと動いて言葉を発する。僕はそれを聞くというより、昨夜同僚にされたときのように水槽頭に直接流しこまれる情報として読み取っていた。 《ほんとコイツつまんねえな。稼ぎは悪いし身長は低いし、顔は並以下だし。生きてる価値あんの? 奢ってくれるから彼氏面するの許してやってるけど『ほっぺたくっつけて一緒に写真撮りたい』とか、キモすぎるわ。さっさと死んでくんないかな。そうすりゃもっといい男探せるのに》 「もしかして、今日って都合悪かった?」  はっとして視線を戻すと、恋人が自分の皿を脇に寄せ、両肘をテーブルについてこちらを見つめていた。 「ううん。もともと予定はなかったよ」首を横に振りながら僕は言った。ささやくような声しか出てこなかった。そのあいだ視線を隣にいるカップルの、特に女性のほうへちらちらと送るのを止められなかった。「でもごめん。じつは今朝からあんまり調子がよくないんだ」 「そうみたいだね」 「ねえ……」僕のこと、どう見えてる? 喉元までせりあがった質問を飲みこみ、僕はこう続けた。「悪いけど、今日はもう帰って寝るよ」 「わかった。何か必要なものある? 一人で帰れる?」 「大丈夫。また連絡する」  そう言って代金を多めに置いているそばから、僕の調子はいよいよすぐれないものになっていた。それは身体よりも精神からくる不調のように思えた。  店を出る直前で振り返ると、恋人が気遣うような視線を送りつつ頷いてくれた。だが帰り道、僕が思いを馳せていたのは彼女ではなく、隣のテーブルにいた二つに割れた水槽頭のことだった。  あれは建前に身を隠した当人の醜い本性だ。そうした確信は、駅に向かっているあいだの道中でさらに目にした二割れの水槽頭の存在によってますます深まっていた。  全体的にその数は多くはないものの、背面側の水槽頭はどれも恨みや妬み、そして誰かに対する憎悪などを口汚くまくしたてていた。  恋人がもしも僕を水槽頭として認識したら、あれと似たような本音と建前を抱くのではないか。さっきまであれだけ幸福に躍っていた胸が、そうした漠然とした予感によって重く、暗くなっていく。  いっそ彼女も水槽頭だったらよかったのに。そうなれば、僕が彼女の本心を読み取ることもできるだろう。  だが僕は、すぐにその考えを打ち消した。  もし本当にそうなって、なおかつ彼女の水槽頭が二つに割れたら。  もしそうしてつまびらかになった彼女の本心が、やはり僕に対する悪感情であったら……想像するだに恐ろしかった。  二つに割れた水槽頭という存在は僕に人の悪意の深さを突きつけるだけでなく、僕の恋人が生身の頭を持ち続けることでもたらされた希望や安堵を奪い去っていった。  乗りこんだ電車の中でも、そうした薄汚い水槽頭の中身ばかりが目についた。見ようとしなくても、穴の空いた虚ろな水槽頭にはそうした思念のようなものが文字どおり通り過ぎていった。  堪えかねた僕はもはや存在していない目と耳を閉ざし、存在しているかどうかもわからない心を閉ざそうとした。
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