第二話・表と裏

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 めまいさえおぼえるような息苦しさのなかで目覚めた僕は、自宅の最寄り駅で電車を降りた。  土曜日の昼下がり、閑散としたホームに出ても呼吸は楽にならなかった。明瞭とは言えない視界のまま改札を抜けられたのは、ここを通勤に使っている習慣の賜物だろう。  暗闇の中で五等星のような光が輝いているのを見て、僕は初めて自分が視界を閉ざしたままでいることに気がついた。意識的に視界を開くと、見馴れた駅前広場、中央にある枯れた噴水のふちに腰かけた一人の女性が暗闇に浮かんだその光と重なる。  彼女もやはり水槽頭だった。  僕に対して抗い難い魅力をたたえていたのは噴水のふちのほうだった。正直もうどんな水槽頭の中身を見たいとも思っていなかったが、このまま休息を挟まずに家まで帰りつく自信はなかったからだ。  さいわいにして、女性の水槽頭は例の二割れではなかった。それなら少なくとも、嫌なものを目にする確率も半分で済むかもしれない。  噴水へと近づいていくと、水槽頭の中で白い背景に唇が浮かんでいるのが見え、発している声も聞こえてきた。 《飼い主から捨てられて路頭に迷った犬や猫を救いたい。保健所の職員に捕まって、殺処分される命を助けたい。前に見たドキュメンタリーで、そんなひどいことが起きているって知ったから。でも……いまは胸を痛めるだけで何もできない。こうしてためこんだ思いを吐き出すだけで、ほかにどうすればいいのかわからない》  そうした声が頭に流れこんでくるにまかせながら、僕は噴水のふちに倒れこむように腰かけた。  気配に気づき、水槽頭が会釈してくる。僕はそれに応じながら、相手が大学生ぐらいの若い女性であることを見てとった。両膝に手をついて嵐が過ぎ去るのを待つように休んでいると、少しずつ気分が楽になっていった。 「あの、どこかお加減でも悪いんですか?」女性が僕にそう声をかけてくる。 「ええ。出先で急に具合が悪くなって。家に帰る途中なんですが、ちょっと休憩を。お邪魔してすみません」 「いえ、ここはみんなのものですから」  僕が曖昧に頷くと、女性は前を向いた。僕も同じ方向に顔を向け、駅前を行き交う水槽頭たちを眺める。  アクリル板の内側では相変わらずそれぞれの中身があけすけになっていたが、それが二つに割れている姿や、黒い背景で悪言を垂れ流している唇を見かける機会はかなり減っていた。  試しに両膝から手を離して背筋を伸ばしてみる。軽いめまいをおぼえたものの、峠は越えたようだ。  立ち上がって少しふらついたところを、女性が後ろから支えてくれる。 「ありがとう」僕は言った。 「本当に平気ですか? 病院か、救急車を呼んだりとか……」  僕は立方体の頭を横に振ると、「たぶん一過性のものですから。家に帰ってまだ具合が悪かったら病院に行きますので」  水槽頭を受け入れてくれる病院があればだが。そんな皮肉を飲みこんで姿勢を持ち直す。女性はそれ以上何も言わなかったが、いつまでも歩きだそうとしない僕に気を揉んでいるようだった。  僕はと言えば、家に帰るだけの気力と体力は回復していた。それでも噴水のそばを離れなかったのは、自分にある決断を迫っていたからだ。保護動物について僕なりの助言、というより私見を述べるかどうかの決断を。  女性のほうを振り返る一瞬のあいだ、様々な思いが去来していた。  水槽頭になってから初めて感じた懊悩、世界の変化について何をやっても無駄だという諦め、これまで以上に周囲の大切な人や他人に対して抱きはじめた関心。  そうして最後に残ったのは、それでも人の善性を信じたいという思いと、一方的に心配をかけてしまった恋人に詫びたいという気持ちだった。 「団体を立ち上げるのはどうですか?」  振り返った僕の突拍子もないもちかけに、女性が存在しない眉間にしわを寄せるのがわかった。 「いえ……その、保健所に連れていかれた保護動物のことで悩まれてるんですよね?」 「そう、ですけど……なんで知ってるんですか?」女性が抱いている疑問が、そのまま僕に対する警戒心に変わったことを感じる。 「あ、いや。その、なんとなくですかね。根拠はないんです」  慌てて両手を振る姿は、僕が水槽頭であるなしにかかわらず怪しいものだっただろう。  これは薄々感じていたことだが、どうやら水槽頭の中身を覗けるのは僕だけのようだ。そうでなければ、同僚があの事故現場を見せるためにわざわざ僕に中身を流しこむことはしないし、あのカップルの水槽頭も、女性側の本性があきらかになってもっと険悪なムードになっていたはずだ。  とはいえ、こうした事情を説明したところで簡単に信じてはもらえまい。そう思いなおしてうまい言い訳を捻りだそうとしたものの、元々が見切り発車で口にしてしまった言葉なので何も浮かんでこなかった。 「すみません」結局、僕はそう言って頭を下げることしかできなかった。「変なことを言いました。忘れてください」  僕は会釈すると、踵を返してその場を立ち去ろうとした。もっと機転が利いたり頭の回転が速かったりすれば、こんな引き下がりかたをせずに済んだのだろう。 「クラウドファンディング……とかですか?」その問いかけにふたたび振り返ると、女性が噴水のふちから立ち上がっていた。 「多分、そんなところだと思います。すいません、素人考えだから詳しくなくて。というかいきなりこんなの、怪しすぎて信じてもらえませんよね」  女性は頷くと、「素直には……でも、ちょっと調べてみます。それであの子たちの命を助けられるかもしれないから」  僕はその言葉に対して称賛することも励ますこともできなかった。自分の考えを形だけでも受け取ってもらえたことが信じられず、もう一度曖昧な会釈をしてその場を立ち去っただけだった。  それでも、昼下がりの空が少しだけ高いものに感じた。僕の頭のアクリル板を通って、午後の太陽がゆらゆらと地面に陽だまりを作っているのを心地よくも思えた。  恋人に打ち明けよう。家路につくまでのあいだに、僕はそう決意を固めていた。  彼女以外のすべての人間の頭が水槽になってしまい……少なくとも僕にはそう見えており、なおかつ僕だけはほかの水槽頭の思考というか、その中身を読み取ることができるということを、打ち明けるのだ。  ただしそれは、水槽頭に対してできるかぎりのことを見聞きしてからだ。僕は自分の決意にそう付け足した。  もちろん自分の姿を元に戻れる可能性についてはほとんど諦めてもいたし、世界中に目を覚ませとうったえかけるつもりもなかった。もっとも今日見たあのカップルの女性のように、一部の水槽頭の思想には異を唱えたくもなったが、僕自身に当人が抱いている感情を否定する資格があるとも思えなかったからだ。  そもそも、人々の頭が水槽になるずっと前から、世の中ではしあわせや正しさの在り方があまりにも細分化されすぎていて、もはや何があるべき姿なのかもわからなくなっていた。  そんな複雑怪奇なこの世界で、僕は僕自身……つまりは水槽頭になった自分を本当の意味で受け入れ、そのうえで恋人にこんな僕が見えているものについて打ち明けたかった。さらに欲を言えば、彼女にもこんな僕を受け入れてほしかった。  元に戻る方法やこうなってしまった原因を探るためではなく、僕はただそのためだけに水槽頭になったことを納得できる理由が欲しかった。たとえ的外れで根拠に乏しいものであっても、あの保護動物の問題に悩んでいた女性にしたように、自分で自分の背中をそっと押すことさえできればそれでよかった。  誰かの悪意に顔をしかめるのはもうやめよう。僕は思った。少なくとも前に進み、それでも悪意が立ち塞がるのであれば、僕なりの方法で立ち向かおう。  いまはまだ、どうすれば求めているものが手に入るのかはわからなかった。それでも家路につく僕の足取りは、自然と軽くなっていた。
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