第四話・増長する正義

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 ひび割れたアクリル板の前面に、こぶしが打ちつけられる。  強烈な一撃を食らった僕は地面に横倒しになったが、胸の奥で渦巻いた感情が痛みがかき消されることはなかった。この怒りと悲しみだけは、僕の水槽頭に空いた穴からこぼれだすことはなかった。    *** そういうものだと受け入れはしたものの、自分の頭が水槽にすげかわってから、僕はあまり鏡を見ないようになっていた。  いまの自分の姿を目の当たりにするのはやはり気が進まなかったし、空っぽの中身を見るたびに虚しい気持ちになったからだ。 《それはおまえ自身が自分を空っぽだと思ってるからさ。だから本当の自分を見せつけられているようでつらいんだ》  突然メメの声が頭の中で響き、思わず僕はあとずさって背後の壁に背中をぶつけた。起きているという自覚があるにもかかわらず、鏡の向こう、前面がさらに大きく割れた水槽頭の中でうずくまる人影が見えた。  昨夜起きた一件によってさらにひどくなった怪我……もとい破損の具合を確かめるために覗いた鏡でこんなものを目にすることになるとは。  水槽頭になった当初、自分で空けた直径数センチほどの穴は、握りこぶしでもすんなりと通るほど広がっていた。実際、そうしてみる勇気はなかったが。 《また派手にやったもんだな》 「やられたんだよ」  壁から身を離し、ゆっくりと鏡に近づきながら僕は言った。水槽頭をとりはずされた夢の中ではないので、こうして声を出すことができた。もっとも自宅で一人きりとはいえ、現実の世界で頭の中にいる人物に話しかけるという行為自体がどうかしている。 《知ってる。見てたからな。まったくひどいやつらだったな》 「メメ、前に言ってたよね。人間は脳味噌を大きな仕組みにつながれた猿だって。あいつらこそまさにそれだよ」 《めずらしく腹をたててるみたいだな》 「あんなもの見せられて怒らなかったら、それこそどうかしてるよ」 《そりゃそうだ。だが大概にしておけよ。危険な考えにつながりがちだからな、正義感ってやつは》 「僕はそんなやつじゃない」 《そういう思いこみが生むんだよ。憤るような悪事をするやつには何をしてもいいって考えをな》  僕は何も言わずに洗面所を立ち去った。水槽頭の中で座りこむメメに対して反論を思いつかなかったのだ。短い廊下を進んでいるあいだ、彼の指摘に図星を突かれた感覚だけが胸の中で疼いていた。  アクリル板の割れ目がひずむのを感じながらベッドに横たわると、僕はさらに大きくなった水槽頭の穴のふちを指でなぞった。痛みはなく、ぎざぎざとした感触だけが指先に伝わってくる。 「メメ、まだそこにいるの?」  天井を見上げたままそう訊ねたが返事はなかった。彼が現実でも話しかけてくるようになったのは、ひとえに穴が余計に大きくなった影響なのだろう。もっともそれは、僕が鏡を覗いているときに限られるのかもしれない。  これが幻覚や妄想の類いだという考えはすぐに打ち消した。いまもなお、頭の中には変わらずメメが息を潜めているのを感じていたからだ。
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