第四話・増長する正義

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 あの出来事から、まだ数時間しか経っていない。  公園で出会った少年の悩みの顛末を見届けたことで、水槽頭の本性を覗きこむ日々のなかで倦み疲れていた僕の気持ちもふたたび前向きなものになっていた。  そのいっぽうで、会社での飲み会以来同僚たちは露骨に僕を避けるようになり、彼らとのあいだにできた溝はいっこうに埋まらなかった。会話は必要最低限の業務連絡にとどまり、それまで何気なく交わしていた世間話すらなりをひそめていた。  もっとも、僕はそれに大きな不自由を感じていなかった。元々が一人で完結できてしまえるような仕事ばかりだったし、そのような職場環境でお互いの関係を親密にするのにも限界がある。  きっとこれは、僕の会社だけが持つ特性ではないのだろう。簡単につながれる分、簡単に切れてしまう。いまの世の中の人間関係というのは、くっつけたり離したりしてしまえる紙切れか付箋のようなものなのかもしれない。木の梢よろしく必要以上に外へと伸ばさず、誰もが自分自身の囲みの中で生きていられたら満足なのだ。それはまさしく、水槽頭の内側そのもののようではないか。  腫れ物のような扱いをされたのでは当然食事や遊びに誘われることもなく、定時を迎えた僕はこの日も誰からも声をかけられないまま会社をあとにした。  特に未練や執着を感じなかったが、なんとなく気分がくさくさもしていた。どこかに寄って夕飯を済ましてしまおう。そんな考えに至ったのも、そんな重々しい一物を胸に抱えていたからかもしれない。  支障はない。そううそぶいてはいても、僕は結局心のどこかで人とのかかわりを求めていた。  人の集まるところに足を運べば何か劇的な出会いがあると本気で思っていたわけではない。ただそれでも、どろどろとした情念が渦巻くような場所であっても、誰かがいる場所というものに、心を揺さぶる何かがあると期待してしまっていた。  ありていに言えば、僕は人とのかかわりに飢えていた。  孤独から逃げるように夜の街を歩く。  そんな使い古された歌の文句が水槽頭の中をぐるぐると泳いでいる人が僕以外にも沢山いるのだろう。立ち寄った居酒屋チェーンの店では、極彩色の映像を流す立方体がひしめいていた。 「すみません。ただいま大変混みあっておりまして、相席でもよろしいでしょうか?」  僕は頷いた。ここに来るまですでに数軒から門前払いを受けていたし、初対面の誰かと食卓を囲むことに対しては気まずさよりも好奇心がまさった。  店員の先導で通された四人掛けのテーブルには、僕よりもいくらか歳若いスーツ姿の水槽頭が二人、差し向いで座っていた。彼らは相席のもちかけを了承し、僕を受け入れてくれた。  ようやく夕飯にありつけるという安堵もあり、僕はおしぼりで手を拭きながら彼らに会釈した。彼らの水槽頭の中でも映像が流れていたが、必要以上に視線を向けるのもよくないだろう。 「お仕事帰りですか?」だがそんな僕の意図に反して、相手の一人がそう声をかけてきた。 「はい」僕はメニューからちらりと視線をあげて答えた。「お二人もそうですか?」 「ええ。最近は残業続きだったもんで、気分転換も兼ねて後輩と飲んでるんです」  そう言って、彼がもう一人の水槽頭を指さす。二人は大手警備会社に勤める先輩と後輩で、学生時代からの付き合いなのだという。  差し出された名刺に目を通すふりをしながら、僕は相手の水槽頭の映像を覗きこむ誘惑と闘っていた。相席を受け入れてくれた彼らに対して、それがあまりにも不義理な行為に思えたからだ。  だが僕の我慢も長続きはしなかった。混み合う店内で誰かの身体が当たったか、誰かの手が滑りでもしたのだろう。床に落ちたジョッキが割れるけたたましい音が鳴り響いたのだ。  思わず顔をあげた僕の視界が、同席したうちの一人の水槽頭の映像を偶然捉えてしまう。高電圧を流されるショックとともに読み取ってしまった映像が頭の中に流れこんでくるなか、僕はもう相手の自己紹介を何も聞き入れられずにいた。  どうにか相槌を打ちつつ、自分のほうは名刺をきらしていると咄嗟の嘘をつけたのは単なる幸運にほかならない。それから店員の水槽頭に注文を告げると、僕はトイレに行くと断って席を立った。  足早に入った個室のドアに鍵をかけ、ズボンも脱がないまま便座に腰をおろす。いましがた見た映像の内容が、空っぽの頭にこびりついて離れなかった。  奇声をあげる老婆。興奮でひきつった笑い声。燃えさかる家。  このままやり過ごそうか、それとも早々に退散しようか。僕は迷っていた。だが貴重品を身に着けているとはいえ通勤鞄は席に置いたままだったし、結論を出しあぐねているあいだに注文もしてしまった。相手の水槽頭の中身を見てしまったことで巻きこまれつつある事態の重大さにもかかわらず、そんな些末な理由から逃げ出すことを躊躇してしまう。  生煮えの判断だけを抱えてトイレを出た僕を待っていたのは水槽頭の片割れ、後輩のほうだった。 「あの、先輩から様子を見てこいって言われて。大丈夫ですか?」 「ええ、はい。まあ……」  気遣うような口調に思わず面食らってしまう。それが、先ほど見た彼の水槽頭の映像とあまりにもかけ離れていたからだ。  結局、曖昧に受け流すような返事を繰り返しながら、僕は彼と共に席へと戻った。 「ああ、おかえりなさい」先輩の水槽頭が僕を迎え入れる。彼の様子もまた、後輩と同様に親切であるとさえ言えた。「泡、死んじゃいましたよ」  そう言って彼が指さすジョッキを持ち上げると、僕は中に注がれた黄色い液体をちびちびとやりながら、同じテーブルにつく先輩と後輩へ交互に視線を向けた。二人とも早い時間から飲みはじめていたのか、相当できあがっているようだった。  僕はあてがわれた四人掛けテーブルの半分をさらにもう半分にしたようなスペースにジョッキと小鉢を置き、なるべく目立たないように食事をはじめた。
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