第四話・増長する正義

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 僕もまた立ち上がると、財布から少し多めの紙幣を出してテーブルに置いた。  心臓が狂ったような鼓動を打っていたが、冷静さも残っていた。こうした物騒な場に身を置くのには馴れていないどころか初めてだったが、相手の頭が水槽になっているというある意味で滑稽な姿が、僕の精神をパニックになる寸前で押しとどめてくれた。  周囲の客や店員の視線を浴びながら外に出ると、先輩の水槽頭が急に僕の胸倉をつかんできた。 「おまえ、どういうつもりだよ? 喧嘩売ってんのか?」 「事実を言ったまでだ」壁に背中を押しつけられながらも僕は相手を睨みつけた。「自分でも驚きだよ。まさか偶然相席になったやつらがこんな屑だったなんてね。それとも、世の中あんたらみたいなやつでいっぱいなのか?」 「でたらめ言ってんじゃねえ!」  返事の代わりに僕は老婆の家の住所を口にした。これも水槽頭の映像から読み取ったものだった。先輩の後ろに控える後輩の水槽頭はあきらかに動揺している。 「なんでだよ?」僕の心の奥で、ふたたび悲しみが怒りにとって代わった。「なんであんなひどいことができたんだ? どうしてあんなことをしたっていうのに平気でいられるんだ? いったい何が――」  そこまでだった。先輩の水槽頭の振りかぶったこぶしがアクリル板の前面に当たり、僕は地面に倒れこんだ。 「黙れ!」  頭上から降り注ぐ声がくぐもって聞こえる。立ち上がろうとついた手の横に、透明の破片がぱらぱらと散らばる。それが自分の水槽頭の、アクリル板の一部であると理解するまでにしばらく時間がかかった。  突如、ホイッスルの音がこちらに近づいてきた。それから怒号と、革靴で地面を駆ける音が近づいてくる。 「何をやってるんだ! やめろ!」  声がしたほうを見上げると制服警官が二人、僕らのほうへとやってきた。警察官たちが声を張り上げながら、両側から挟むように先輩の水槽頭へと詰め寄る。  助かった。興奮が冷めはじめつつあった僕は最初にそう思った。  おそらく店でのいざこざを察知した店員か客が通報してくれたのだろう。店自体も繁華街にあったので、たまたま近くを警察官が巡回していたのかもしれない。 「大丈夫ですか?」  そう言って警察官の一人が僕が立ち上がるのに手を貸してくれた。案に相違せず、その制帽は水槽頭の上に乗っていた。  ファンなのだろうか、アクリル板の向こうではアイドルと思しき女性の水槽頭がステージの上で踊っている。  警察官の水槽頭は僕をこの場から離れるように促してきた。だが僕は、こちらを睨む先輩の水槽頭の視線を真っ向から受け止めた。警察官の仲裁で喧嘩沙汰はこのまま収拾がつくだろう。  だがそれだけだ。彼らが犯した本当の罪は裁かれるどころか、このまま気づかれることはないのかもしれない。僕は意を決すると、警察官に見えない位置で手の平を上に向け、こちらへ招くように四本の指を曲げて相手を挑発した。  先輩の水槽頭が激昂し、もう一人の警察官の制止を振り切ってこちらに向かってくる。それに気づいて、僕の介添えをしていた警察官が立ちはだかる。ある意味での拘束と監視から解放された僕は、揉み合う二人へと近づいていった。  空っぽになった頭の中では、同僚に初めて水槽の中身を流しこまれたときのことが浮かんでいた。あれによって、同僚の記憶とでも言うべきものが僕の頭に入ってきた。  最初は両手でお椀を作ろうとしたが、やめた。なんといっても相手の背のほうが高いので、爪先立ちになっても両腕を差し入れるのは難しいと思ったからだ。  代わりに僕は右手を丸めて柄杓のような形を作った。どれぐらいの分量があればいいのか見当もつかなかったが、必要とあらば何度でも水槽頭の中身をすくうつもりだった。  折よく、警察官に両肩を捕まれた先輩の水槽頭が体勢を崩されて地面に膝をついていた。  僕は迷うことなくその立方体の中に右手を突っこむと、すくいあげた中身をそのまま警察官の水槽頭へ流しこんだ。  初めて触れた中身は、子供の頃に工作したスライムと感触が似ていた。洗濯糊と水、それから好みに応じて絵具で色をつけられるこの物体は、濡れているにもかかわらず触れてもすぐに手が乾いてしまう。  二杯目を移す必要がないということは直感でわかった。警察官の身体がまるで雷に撃たれたかのように全身を真っ直ぐにしたかと思うと、いま自分がどこにいるかを確かめるかのように、アクリル板の前面をきょろきょろと巡らせはじめたからだ。それが瞬間的な記憶の混濁とでも言うべき状態なのは、身をもって経験している。 「きみ、ちょっと署で話を聞かせてもらおうか」  どこか呆けたような調子の警察官にそう言われ、先輩の水槽頭がこちらを向く。 「おまえか?」僕に視線をぴたりと止めて彼は言った。「おまえがなんかやったのか?」  僕はもう何も言わなかった。その場を立ち去る途中、もう一人の警察官に殴られたことに対して被害届を出すかどうかを訊かれた気がしたが、やはり何も言わなかった。
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