第五話・しあわせのお裾分けをしてどうしたいんだ?

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 恋人が生身の頭のままであるという事実は、水槽頭になって以来、僕の心の大きな支えになっていた。  だがいま、彼女の顔を、そして表情を見るのを初めて怖いと思った。台所に立って背中を向けたまま、こちらを振り返ってほしくないとさえ願っていた。  だがその思いも虚しく、恋人は振り返り、疑問と困惑をたたえた目で僕を見つめてきた。 「頭が水槽? 熱帯魚でも飼いたいの?」  かすかに震えた声で訊ねる恋人を見て、およそ冗談としても成立していないこともわかった。それと同時に、彼女はその態度から自分の心情を表に出してしまっていた。僕が狂気をはらんだ存在になってしまったという怯えを。 「そうじゃなくて……」ふつふつと苛立ちが沸き立つのを感じながら僕は言った。「水槽頭っていうのはもののたとえで……」  空っぽの頭を悩ませながら立ち上がり、台所にいる恋人のほうへと歩み寄る。それから相手の両腕に手をかける。こちらを見上げる細い身体から強張りが伝わる。 「ねえ、僕の顔ってどう見えてる?」 「どんなって……ひどい傷だけど。どうしたの、それ?」  恋人はぎしぎしと軋みをあげそうな動作で持ち上げた指を、僕のアクリル板の前面に向けた。ちょうどそこは数日前に空き、昨夜の騒動でさらに大きくなった穴のあるあたりだった。 「これは、色々あったんだよ。それより答えてよ。ねえ、どう見えてるの?」 「ちょっと、痛いよ!」  彼女が身をよじるようにして拘束から逃れる。僕はその輪郭をなぞるように、両手を空中に差し出したまま制止した。 「あの、ごめん。でも僕、よくわからなくて。先月のはじめあたりだけど、朝起きたら急に頭がこんな……水槽みたいになってて。僕だけじゃなくて、ほかの人たちもみんな同じようになってて。正直はじめはあんまり気にならなかった。信じてもらえないかもしれないけど、ああ、こんなもんなのかなって受け入れられて。でも、同僚とのいざこざで水槽がちょっと割れて。そしたら今度は変な映像が見えたり声が聞こえたりするようになって。けど、きみだけは違ったんだ。生身の……というかこれまでと同じような頭のままで、水槽にはなってなくて……」  そこから先をどう続ければいいのかわからなかった。彼女のほうも黙ってはいたが、僕の言い分に耳を傾けてくれているかどうかは疑わしかった。  僕がふたたび話しはじめる前に、火にかけられていた鍋がふきこぼれる。彼女はその場から動かずに片手だけを伸ばすと、僕の傍らにあるコンロを切って、すぐに自分の胸元へと引き寄せた。 「私、これから仕事だから……ごはん作ったから食べて」  彼女はそう言うと、僕の横をすり抜けるように台所を出ていった。玄関のドアが開き、閉じる音がしても、僕はその場に立ち尽くしたままだった。  自分の説明や思いが相手に伝わらなかったことを痛感した。これまで堰き止めていた感情からいっぺんに溢れた言葉の数々は、なんて利己的で自分勝手な響きしかもっていなかったのだろう。それは僕の水槽頭に中身を無理矢理流しこんできた同僚の行為と、何も変らない。  どす黒い中身を封じこめた五枚のアクリル板は、そのまま僕と恋人とを隔てる壁にもなっていた。 「僕のこと、どう見えてるの?」  返事がないとわかっていながらも僕は繰り返した。当然、その質問には誰も……僕の頭の中にいるであろうメメでさえ答えてくれなかった。
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