第五話・しあわせのお裾分けをしてどうしたいんだ?

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 ほどなくして僕は会社を辞めた。  水槽頭になってから仕事に身が入らなくなったところに恋人との一件が追い打ちをかけ、無断欠勤からずるずると退社へつながるはこびとなったのだ。  直属の上司は退職を切り出した僕を最初のうちこそ引き止めたものの、それからすぐに手続きを進めてくれ、業務の引継ぎなどで本来は一ヶ月はかかる手続きも二週間ほどでみんな済ませてくれた。  人間関係の希薄さは、要するにそれを精算する上での身軽さに直結する。それがいいのか悪いのかは一概には言えないが。  収入を得られなくなることへの不安を常に抱えていたにもかかわらず、ここまであっけなく無職になれてしまったことが自分でも信じられなかった。人生を送るうえで必要不可欠だと思っていた要素は、こんなにも簡単に手放すことができてしまえた。  分かち難いもの。僕は仕事や職業に対して、これまでそうした狭窄的な視野しか持ち合わせていなかった。  そして恋人に対しても、似たような思いこみをしていたのかもしれない。学生時代から足かけ十年弱。僕は彼女とあまりにも近く長い時間を過ごしたせいで、無意識のうちにそこにいるのが当たり前で、失ったときのつらさなど考えてもこなかった。  いま、そうした半生を支えてくれた存在は僕のもとを去っていった。残ったのは水槽の形をした頭と、その中に居座るお喋りな同居人だけになってしまった。 大学時代の知人とばったり再会したのは無職になってから一ヶ月ほど経った頃、もはや目的も意味も失い、ただ習慣としてこなしていた水槽頭の観察のため外出したときのことだった。 「ひさしぶりじゃん」そう言ってこちらに手を振ってくる彼女もまた、ご多聞に漏れず水槽の頭を持っていた。 「ああ、ひさしぶり……」どこか圧力をはらんだ相手の雰囲気に押されながら僕は曖昧な返事をした。 「会社員じゃなかったっけ? 今日って平日だけど仕事は? クビにでもなった?」 「ちょっと色々あってね」  はぐらかす僕に対して、彼女はアクリル板の前面をぐいと近づけてきた。彼女は僕の恋人とも友人同士で、昔からこうしてあけすけな質問をしてきたかと思うと、急に含みのある視線でこちらを窺うような態度をとってくる人物だった。その人柄も災いして周囲に敵を作りがちで、かくいう僕も彼女に対して苦手意識を抱いていた。 「色々ね……まあいっか。ねえ、いま時間ある? どっかで話そうよ」  返事を待たず、彼女は僕の手を取って歩きはじめた。  引きずられるようにしてやってきたのは瀟洒な通りの一角にある喫茶店で、彼女はテーブルにつくなり身を乗り出してきた。 「でさ、あの子と何があったの?」  あの子、というのが僕の恋人であるのはお互いに承知していた。自宅で衝動的に自分が水槽頭だと打ち明けたとき以来、彼女とは話をしていない。最後に見た彼女の、驚きを通り越して僕に対する恐怖に染まった顔を思い出す。 「ちょっとね……」僕は先ほどと同じような返事を重ねた。「ちょっといざこさがあってさ。謝りたいんだけど、連絡もとれなくて」 「あの子、携帯も持ってないもんね。いまどきほんとめずらしいわ。絶滅危惧種なんじゃないかな?」  心構えもなしに自分以外の人から聞く恋人の話に思わずぎくりとしてしまう。  たしかに僕の恋人は、携帯電話をはじめとした持ち運びのできる通信端末の類いを何も持っていない。これまでは彼女がなんの前触れもなしに僕の家を訪れることで定期的に顔を合わせていた。喧嘩をしても、僕か彼女が相手の家に行って仲直りをした。そうして成立していた関係は、付き合って以来最大の危機によってあっけなく崩れ去ろうとしている。
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