第五話・しあわせのお裾分けをしてどうしたいんだ?

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 動揺を隠すため、僕は運ばれてきたアイスコーヒーのストローをアクリル板に近づけた。かつてあった口中に、香ばしさとほのかな酸味が広がる。 「まあ私はこの前会ったんだけどね」 「本当に? どこで?」僕は今度こそ狼狽した。 「食いつきいいね」彼女がからからと笑いながら言う。「私、最近結婚したんだ」 「そうなんだ。おめでとう」  僕が薄い反応しかできなかったのは望んだ答えが返ってきたからだけではなく、彼女が結婚しているという事実を既に知っていたからだ。  テーブルを挟んで向かい側にある立方体の中では、二つの左手が映っていた。一つはネイルで飾り立て、もう一つは骨張った大きな手をしていたが、その両方の薬指に銀色のリングが輝いていた。 「で、式は挙げなかったんだけど。あ、予算というより予定の関係でね。彼、外資系で忙しいから。ただ、やっぱり思い出に残ることしたいよねってなって」  そう言って彼女は、左右の手で自分の水槽頭の両側を挟みこんだ。結婚指輪がアクリル板に当たってかちりと音をたてる。  二つの左手に代わって、水槽頭に別の映像が浮かび上がる。映し出されたのは岩棚の上に立つタキシードを着た男性と、ウェディングドレス姿の彼女とが手に手を取り見つめ合う姿だった。どこかの山の中腹だろうか。背景には抜けるような青空と、深い森の緑が二色のコントラストを織りなしている。彼女の水槽頭を覆っていたヴェールが風になびき、スカートと共に風に乗ってはためいている。 「どう、すごいでしょ?」 「そうだね」今度こそ僕は、たいした興味も持てないものを前に気の抜けた返事しかできずにいた。「どこでこれを?」 「ほら、ここから最寄りの駅で電車に乗って終点の手前。あそこで降りると登山道に行けるバスが出てるんだけど、知らない?」 「ぴんとはこないけど、行くまでに結構時間がかかったんじゃない?」 「そうだね。うちから電車とバスを乗り継いで二時間半。登山道からこの場所までもう二時間半ってとこかな。大変だったよ。天気のいい日を見つけてさ、朝も四時前には起きたりして」 「それで……これと僕の恋人になんの関係があるの?」 「手伝ってくれたの」僕の物言いにむっとした様子で彼女は言った。「ほかにもう二人いたけどさ。みんなでメイク道具と衣装にお弁当なんかも持っていって。楽しかったな。私が声かけたんだ。見てよ、ここのところ」  そう言って彼女は自分の水槽頭の前面、ちょうど花嫁姿の当人がなびかせるヴェールを囲うようにして指先で円を描いた。 「これなんか、タイミングを合わせてあの子がヴェールを放ってくれてさ。奇蹟の瞬間って感じじゃない?」 「ここにはいないみたいだけど、彼女」  僕は指摘した。アクリル板には新郎と新婦の二人しか映っていなかった。 「うん、加工したのよ。撮影が終わったあとでね」 「消したってこと? 僕の恋人を?」 「編集よ。裏方が入りこんでたら変でしょ? それに彼女だけじゃないよ。私と旦那以外、映った子たちはあとで加工してるの」 「消したってことだろ?」 「何よ? 文句でもあるの? いいじゃない。今度あんたたちが同じことしたかったら裏方になってあげるから。まあ、今度があればの話だけど」 「こんなことしたくはないね。気持ち悪い」 「あのね」彼女が呆れ果てた様子もあらわに水槽頭を横に振る。「私と旦那の晴れの日なんだから、ちょっと協力するぐらい当たり前でしょ」 「主役になるためだったら何をしたっていいの? 協力してくれた友達をなかったものにしても? みんなで一緒に記念撮影するのじゃいけなかったの?」 「小学生の遠足じゃないんだから、そんなダサいことできるわけないでしょ」 「これのほうがずっとダサいと思うけど」 「なんなの? うざいわ。なんであんたにそこまで言われなきゃいけないわけ?」 「恋人がこんな扱いされたんじゃ文句も言いたくなるよ」 「恋人?」それまで気色ばんでいた彼女が一転、ふん、と存在しない鼻を鳴らした。「聞いたよ。あんたあの子と最近折り合い悪いんだってね。詳しくは訊けなかったけど、どうせいまみたいに面倒くさい絡み方してたんでしょ? かわいそう」 「かわいそうなのはそっちだろ?」相手の疑問をかわすように僕は立ち上がると、懐から財布を取り出した。「旦那さん、都内の大手企業に勤めてるんだっけ? 毎日忙しくてストレスも溜まるんだろうね。おまけに出世コースからもはずれちゃってさ。きみに直接手をあげてはないみたいだけど、モラハラが凄いんでしょ? それに会社の若い女の子と隠れて会ってるみたいだし……」  彼女は僕がテーブルを滑らせるように差し出した紙幣ではなく、こちらを見上げながら水槽頭を小刻みに震わせていた。 「お釣りはいらないよ。しあわせのお裾分け、ごちそうさま。旦那さんと末永くね。できるだけ」  去り際、背中に金切り声で罵詈雑言を浴びせられたが、僕は気にならなかった。言葉の意味を理解することも放棄していた。  彼女が二つの水槽頭を持っていることは、再会してすぐに気がついた。表側の頭では満ち足りた新婚生活を吹聴していたが、裏側では呪詛でも口にするかのようにその実態を語っていた。  聞くに堪えない本音には触れずに適当に相槌を打つにとどめるつもりだったが、恋人の扱いを見かねてつい攻撃的になってしまった。  店を出た僕の胸に広がったのは爽快感ではなく、自分の行動を恥じるような気持ちだった。心がささくれだっていたとはいえ、あそこまで他人の幸福を踏みにじれてしまう僕は、きっと恋人にはふさわしくない人間に違いない。 《いいじゃねえか! この前の放火魔に引き続き、またクソ野郎をぶちのめしてやったんだ。胸を張れよ!》通りかかったブティックのショウウィンドウ、映った僕の水槽頭の中から、メメがそう話しかけてきた。《で、おまえもめでたく罪人に石を投げる罪人になれたわけだ。あるべき姿だ。楽になりな》 「うるさい」 《おまえ一人が世の中に抗ったところで、どうせ何も変わらねえよ。そのふざけた頭にしたって、もう元には戻らねえんだ。おまえだってよく言ってるじゃねえか。『そういうものだ』って》 「黙れ!」  ショウウィンドウが震えるほどの大音声で言うと、メメは僕の頭の中から消えた。  少なくとも、いまのところは。  周囲を歩いていた水槽頭たちは一瞬だけこちらにアクリル板の前面を向けてきたが、あとは僕など存在しないかのように立ち去っていった。  彼らはいつもそうだ。自分の世界にどっぷり浸かっているせいでぼんやりと歩いているくせに、道で誰かとぶつかりそうになるなり不満をあらわにする。  誰もがそんな自分の作り出した幻想の世界に閉じこもっている。  新婚生活における問題を見て見ぬふりする彼女もそうだった。あの放火魔たちもそうだった。それから同僚も。  そして、僕も。  水槽頭の中には何もない。きらびやかな世界として映し出しているのは薄っぺらな幻影で、一皮めくればアクリル板と黒い枠で組まれた空虚だけが広がっている。  僕ら水槽頭はみんな、自分の理想の中で溺れるだけの存在だ。
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