第一話・そういうものだ

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 自分の頭が水槽になっていたことに気づいたのはある朝のこと、身支度を整えるために鏡を覗きこんだときだった。  これではひげが剃れない。両肩のあいだに据えられた水槽を見て、僕は最初にそう考えた。  それに歯磨きや寝癖をなおすこともできない、とも。  ひとまず壁にかかったタオルを手に顔の名残だった前面のアクリル板を拭くと、水槽の四分の一ほどを満たしていた黒い中身がちゃぷちゃぷと音をたてた。  人間、五センチの深さの水と覚悟があれば死ねるものだが、不思議と呼吸はできている。というより、水槽の中に生身の頭部は存在しておらず、揺れる濁った水面以外に動くものはなかった。  もはやどうして機能しているのかわからない目を凝らすと、濁りの原因は無数に漂う文字だということがわかった。その羅列にどんな意味がこめられているのか、僕は理解できなかった。  食事もどうすればいいのやら。そう考え、洗面台に手をついて鏡の奥をとっくりと見つめる。  それから誰にともなく頷いて、僕はこう結論づけた。  そういうものだ、と。  それよりも重要なのは、会社の始業時間に遅れないことだった。  僕は洗面所を離れると、パジャマを脱いでワイシャツに袖を通した。下着のシャツは、襟が水槽頭の襟でつかえてしまうので諦めた。  通勤の途中で僕以外の人間も水槽頭になっているのを目の当たりにしても、たいした驚きはなかった。自分の姿がこうなったときから、薄々そんな予想ができていたからだ。  ただし全員がそうではなく、頭が水槽に変わっていない人の姿をいくらか目にすることもできた。生身の頭を保ち続けているのは大抵、まだベビーカーを卒業できないような赤ん坊や、足腰もが立つのもやっとな高齢の老人ばかりだった。もっとも、その数は全体としてけして多くはなかったが。  まだ水槽頭になっていない人がいるという事実が僕にもたらしたのは安堵ではなく、もうあちら側へは戻ることができないという寂しい実感だった。それでも、そうした感情はしばらく経つと消えていった。  そういうものだ。  その言葉とともに諦めにも似た気持ちを抱いた僕は、会社に向かうあいだ水槽頭をただぼんやりと眺めた。  程度の差こそあれ、水槽頭はどれも同じような大きさだった。  それでも、僕以外の水槽は目を凝らしてもその中身を見ることができなかった。水槽のふちぎりぎりまで、あの黒い物体で満たされていたからだ。  通勤電車に揺られるなかでそうした黒い立方体の群れに囲まれても、あまり不気味さを感じなかった。むしろその中身が黒に覆われていることに安心していた。彼らの中身の正体がどんなものか、知りたいとも思わなかった。  案に相違せず、会社のオフィスにいる人間も全員が水槽頭だった。 「いやあ、まいったよ」  始業時間ぎりぎりに横合いからそう声をかけられる。  見ると、隣の机にスーツ姿の水槽頭が腰かけていた。僕はその相手を、座席の位置関係から同僚だと理解した。 「昨夜もほどんと寝れなくてさ」頭が水槽になっても話すことはできるのか。そう感心する僕をよそに、同僚は続けた。「始発に乗って一回家に帰ってさ、そこからここに直行」 「どこに行ってたの?」 「都内。女のとこ」 「彼女?」 「いや、愛人三号」 「あ、そう」 「そいつの顔、見てみる?」 「遠慮しとくよ」  かわすように答えると、僕は仕事にとりかかった。どんな面相であっても、どうせ僕には黒い中身をたたえた水槽にしか見えない。  午前中の仕事がたてこんでいたせいで、昼食を済ますために会社を出たのは午後二時過ぎのことだった。  それにしても、この頭でどうやって食事をすればいいのか。  疑問は募るものの朝食を抜いて腹が減っているのを実感もしていたので、ひとまず近所のラーメン屋に向かった。店内は満席だったが、たいして待たされることもなくカウンター席に通される。  ほとんどの人間の頭が水槽になっても、世の中の流れはたいして変わっていなかった。  水槽頭に白いタオルを巻いた店主からラーメンを受け取りながらふと真横を見ると、隣の席に腰かけていた客が箸も持たずにどんぶりの中身にアクリル板の前面を向けてじっとしていた。  これが水槽頭の食事のやりかたなのだろうか。  そう思いながら僕も同じ姿勢をとってみたが、食欲をそそるにおいをはらんだ湯気がアクリル板を曇らせるだけで、いっこうに腹は満たされない。  仕方なく生身の頭だった頃の習慣どおりに箸の先をアクリル板のそばまで運ぶと、つまみあげていた麺が途端に消えた。それから存在しない口いっぱいに味が広がり、空っぽだった胃袋が身震いするのを感じた。  同じ要領でどんぶりの半分ばかりを片付けている僕の横で、隣の水槽頭もようやく箸とレンゲを手に取った。先に店に入っていたその客は、食事を終えた僕が会計をしているあいだもその場に居座り続けていた。  午後の仕事も片付け、残業もそこそこに家路につく。  帰りの電車内も水槽頭であふれかえっていたし、夕暮れを切り取る窓に映った僕の頭も相変わらず彼らと同じままだ。  線路のカーブにさしかかって車両が大きく揺れると、隣に立っていた水槽頭からその中身が数滴飛び出した。黒い粒はそのまま放物線を描くと、床に触れる前に空気の中へと溶けていった。  文字の羅列のようなものも見えたことから、水槽頭の中身はやはりただの水ではないのかもしれない。かといって自分のはもちろん、ほかの水槽頭に手を突っこんで中身の正体がなんなのかを確かめる気にもなれなかった。ただでさえ日々の仕事に追われて疲れているというのに、余計なことをして厄介事を招きたくはなかった。
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