第五話・しあわせのお裾分けをしてどうしたいんだ?

5/5
前へ
/37ページ
次へ
 この全身の不調には覚えがあった。  初めて二つに分かれた水槽頭を見た日の帰り道に味わったものとまったく同じだったからだ。もっとも、いまの状態はあのときに輪をかけてひどいもので、僕の身体のあちこちは悲鳴をあげていた。アクリル板の前面に触れてみると、立方体をぐるりと囲むように稲妻の形をしたひびが走り、穴もさらに大きくなっていることがわかった。相変わらず痛みは感じなかったが、遠からず僕の水槽頭が完全に壊れてしまうという予感があった。  そうなったとき、僕自身の存在はいったいどうなるのだろう。  よぎった不安をすぐに一笑する。自我や自己などという大仰なものが、もはや僕の内側に残っているとは思えなかったからだ。所詮、水槽頭が抱えているのは空虚だけだ。  どん底の体調を抱えたなかで僕がその人を見つけて足を止めることができたのは、単に偶然がはたらいたからだろう。  自宅最寄りの駅前広場を、あの保護動物への活動で悩んでいた若い女性の水槽頭が歩いていたのだ。彼女もまた僕に気づくと、しばらくそこで立ち止まってからこちらへと近づいてきた。 「お兄さん」彼女は少し離れたところで立ち止まり、僕にそう声をかけてきた。「ご無沙汰しています。あの、私、あれから保護動物のことについて支援を呼びかけたんです。学校の友達や知り合いのつてを色々頼って、そしたらたくさんの人が賛同してくれて……ありがとうございます。お兄さんがアイデアを出してくれたから、なんとか軌道に乗せていけそうです。それで、今度会ったらお礼を言おうと思ってて」 「そのわりには、僕に近づきたくないみたいだけど?」  相手への気遣いもなしに僕は思ったことを言った。  というのも、彼女の水槽頭もまた二つに割れており、正面側では周囲からの手助けに対する感謝を述べるいっぽうで、背中側では醜い欲望が渦巻いていたのを見てしまったからだ。 《予想以上に資金が集まった。これだけの金額なんだから、少しぐらい私が使ってもばちは当たらないよね。だってこれは私の努力の成果なんだから。犬や猫なんかよりも、まず私が労われるべきなんだから》 「着服してるの?」後ろ暗い暴露から顔を背けるようにして僕は彼女に訊ねた。 「え? なんですか?」 「保護動物のために集まった支援金、自分の懐に入れてるんじゃないの?」 「ちょっと、やめてくださいよ! 言いがかりですか?」 「そうじゃないよ。だって、きみがそう言ってるんじゃないか」 「はあ? 私がいつそんなことを言ったんですか?」 「いまだよ」 「頭おかしいんじゃないんですか? それ、何か根拠があって言ってます?」 「きみだっておかしいよ。僕もだけど。みんなおかしい。そうだろ?」  そう言い捨てて僕はふらつきながらその場を離れた。アクリル板に走った亀裂がさらに深まっていくのを感じていた。  彼女の崇高な志にあてられるようにして、僕は水槽頭としての身の振り方を決め、その先にある目標を決めた。勝手だったかもしれないが、彼女の善意を密かに生き方の指針のように思っていたし、希望も見出していた。  それが、この短い期間で何が彼女を変えてしまったのだろう。裏の水槽頭に浮かんだ唇が発する言葉を聞くことで、それはすぐにわかった。  自己顕示欲、功名心、あるいはそれらが混じり合ったもっと巨大な欲望に彼女の美徳は破壊されてしまったのだ。そして彼女自身はそのことになんの感慨も後ろめたさもおぼえず、ただ自己保身という楽な道へと流されていった。  水槽頭は悪意だらけ。駅前の広場を横切りながら僕はその真実だけを思っていた。  唯一の例外があるとすれば、いじめられっ子と仲良くすることができたあの中学生だけだろうか。いや、彼でさえ結果的に本当の友情を育むことができたものの、そもそものはじまりは集団で個人を虐げるという悪意からだったではないか。  いっそ、目についた水槽頭を片っ端から割ってまわろうか。頭をもたげたそんな考えをどうにか押しとどめる。  良心の呵責を感じたからではなく、いまや世界中にはびこっている連中を僕一人で割ることなど到底不可能に思えたからだ。あるいは、かかる労力の問題さえ解決できれば、僕はそうした行動をとることも辞さなかっただろう。  誰かが僕を呼ぶ声が聞こえる。それが危険を知らせる警告だと気づいたのは、赤信号が光る横断歩道に足を踏み入れ、やってきた車に跳ねられ宙を舞った直後だった。  これが誰かに対する誹謗や中傷だったら、いち早く聞きつけることができたのかもしれない。誰かが誰かの身を案じるという利他的な言葉は、もう僕の耳には簡単に届かなくなっていた。  地面に叩きつけられ、背面と側面、それから前面のアクリル板が粉々に砕け散る。それまで僕の水槽頭に空いていた穴も消え去り、僕の両肩のあいだに残ったのはひしゃげた枠組だけになった。  はじけ飛んだ透明の欠片が飛び、空中のある一転で止まり、降り注ぐ。僕はそうした光景を地面に仰向けになったまま見つめていた。 《ありがとうな》メメの声が聞こえた。きっとこれは、僕の壊れた水槽頭の中から発せられた声だ。《これでやっと、俺は解放された》  意識を失う直前に見たのは、視界をぐるりと取り囲むようにこちらを覗きこんでくる水槽頭たちの群れだった。彼らは声をかけることも助けを呼ぶこともせず、ただじっと、僕を見おろしていた。  これまで一方的に観察していたはずの水槽頭に、僕は観察されていた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加