第六話・空っぽな自分と世界。解放と再生、そして甘受。

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 夢の延長線上を歩いて進むような目覚めだった。どこかよそよそしさを感じさせる枕に頭を乗せた僕の視界に、等間隔に穴の空いた天井が映りこむ。  きっと、僕の水槽頭に空いた穴があっちにずれたんだ。鈍った頭でそんなことを考えながらも、僕は現実との折り合いをつける努力をはじめた。そうして明確になっていく五感のなかで、僕の手を握る誰かが傍らにいることに気がついた。 「映子(えいこ)?」  僕は恋人の名前を呼んだ。こうして口にするのはひさしぶりだったし、夢の中で交わしたメメとの会話と違って、舌をうまく動かせなかった。  それでも恋人の映子は僕の声に気づき、こちらに目を向けてくれた。  知ってもらわなきゃはじまらない。先ほどメメが口にした言葉がよみがえる。僕は思った。  そのとおりだね、メメ。 「気がついたの?」そう訊ねたあと、映子が椅子から腰を浮かせる。「いま先生を呼んでくるから」 「大丈夫」去ろうとする彼女の手を僕はさらに強く握った。「大丈夫だよ。それより、ここにいて。少しだけでいいから」  映子はゆっくりと椅子に戻った。そのあいだ、僕の顔から片時も目を離そうとしなかった。 「具合はどう?」 「平気だよ。ちょっと眠いけど」  それに、起き抜けに白衣姿の水槽頭なんて見たくない。実際口にはしなかったが、僕はそう考えていた。 「僕の怪我、ひどかった?」 「怪我自体はひどくなかったみたい。あなたを跳ねた車、ちょうどロータリーに進入してるところだったからそこまでスピードが出てなかったそうなの。ただ頭を打ったせいでずっと意識が戻らなくて……覚えてない? 事故が起きてからもう三日も経ったんだよ?」 「そうだったんだ」  言いながら、僕はメメとの会話を振り返っていた。短いやりとりに感じたが、現実ではもっと長い時間が過ぎていたということか。 「でも安心して。身体だけじゃなくて頭と、その中身……じゃなかった。脳にも後遺症はない――」  僕は跳ね起きた。あの夢にあったように、僕はてっきり自分の水槽頭と別れを告げられたのだとばかり思っていた。だからこそ、メメも僕に対してお別れを言ってきたのだと。  それから僕はあの夢と同じような行動をなぞった。つまり、自分の頭には触れまいと、両手を身体の横に貼りつけたまま硬直したのだ。  指先がアクリル板の滑らかな表面の感触を捉えることを、これほどまでに恐ろしいと思ったことはなかった。  だがその我慢にも限界があった。緊張に堪えかねた僕は周囲を見渡して目当てのものがないことを知るなり、足に絡まったシーツを引き裂きたい衝動を抑えながらベッドを降りた。  歩きだす僕を映子は呼び止めることなく、ただ黙って後ろからついてきてくれる。そのことが支えになり、僕を前に進ませた。  六人用の相部屋の入り口、車椅子の患者でも通りやすいよう広めに設けられた引き戸のそばの壁に鏡がかかっている。  そこに映った光景を見た瞬間、僕は目という器官が変わらず失われたままだということを知った。  それでも僕は、鏡に近づいていった。裸足のままリノリウムの床をぺたぺたと一歩ずつ進んでいるあいだに、なにかしらの慰めが得られるものだと期待しながら。 「先生がなおしてくれたの」 「それ、どう書くほう?」鏡と対峙したまま僕は訊ねた。 「どう、って……」 「治療のほうなのか、修理のほうなのか。ほら、漢字が違うでしょ?」答えを待つ必要はなかった。振り向いた先で映子が俯いているのを見て、僕はすべてを察した。「そっか、修理のほうなんだね。たしかに、こんなに綺麗に穴が塞がってたら亀でも熱帯魚でも飼えそうだ」  自嘲する僕の手を映子がふたたび握りしめる。そのまま手を引かれた僕は、抵抗することなくベッドに戻った。 「はじめはね、見間違いだと思ったの」椅子に座ってからたっぷり一分ばかりの間を置いてから、映子はそう言った。心身ともにまだ本調子ではない僕が居住まいを正すのを待ってくれていたのかもしれないし、自分の気持ちを整理するためだったのかもしれない。「私っていま、在宅のフリーランスで働いてるでしょ? 最近はすごく忙しくて、だからずっと家にこもりっきりで人と顔を合わせる機会もほとんどなかったの。それでもさすがに食料とか日用品の買い物で週に一回ぐらいはでかける必要はあって……で、そこで見たの」  映子は右手を持ち上げて人差し指を向けかけたが、すぐに思いなおして手の平を上にして僕の水槽頭を示した。
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