第六話・空っぽな自分と世界。解放と再生、そして甘受。

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「そのときは全員がそうじゃなかったし、人混みの中にいたから目の錯覚だとも思った。でも、日を追うごとにその数が増えてきて……最初は仮装パーティか何かかと思ったんだけど、次の週に買い物に出たときも見かけて。近所だけじゃない、テレビをつけてもそういう人たちばっかりになっちゃって。でも、本人たちはまったくそのことに気づいてないみたいで……それで思ったの。あ、私おかしくなっちゃったんだって。別に特別大きな悩みやストレスがあるわけじゃないし、頭を強く打ったわけでもない。でも、何かがおかしくなったんだって。それで……気づくのが遅くなってごめん。あなたのことが心配になって、家に行ったの。はじめて神様に本気でお祈りしたよ。あなただけは元の姿のままでいてくださいって」 「でも、そうじゃなかった」  おそらくそのタイミングが、僕が自分の水槽頭に穴を空けた翌日のことになるのだろう。 「ごめん」僕は言った。 「あなたが謝ることじゃないでしょ」 「そうだけど。でもきみは、いつもどおり振る舞ってくれただろ。僕を連れ出して、一緒に食事もしてくれたし……まあ、途中で僕が帰っちゃったんだけど」 「もちろん最初はびっくりしたよ。それに、やっぱりショックだった。根拠はなかったけど、心のどこかであなただけはまだまともなんだって信じてたから。あ、ごめん」 「いいよ、僕もこれがまともじゃないって思ってるから」  そう言って水槽頭の横っ面を軽く叩く。そのおどけた音に映子は笑ってくれた。それだけで、僕もなんだか救われた気分になった。 「でもあなたは、それ以外は全部いつもどおりだった。ちょっと抜けてるけど気を遣っててくれるところとか、無頓着なくせして妙にこだわりが強いところとか。頼んだ料理の好みもフォークの使いかたも、いつものあなたと同じだってわかって嬉しかった。そうなってからは気にならなかった。具合が悪いって言われたときだって、素直に心配したんだよ」 「ほかの水槽頭は気づいてるの? その、きみが生身の頭を持ったままだってことをだけど」  映子は首を横に振ると、「気づいてはないみたい。というか、私にはたいして興味もないみたい。って、あの人たちのこと……ああ、あなたもだけど、そんなふうに呼ぶの? 水槽頭って?」 「僕が勝手にそう呼んでるだけだよ。薄っぺらで、汚い中身以外は空っぽで、その見た目が水槽みたいでさ」  そこで会話は途切れた。映子はしばらく俯いたあと、ベッドに座っていた僕の手を両手で包み、こう言った。 「本当に、よかった……私、不安だったんだ。この世界中で私の頭だけが元のままで。すごく怖かった。まわりじゃなくて、私のほうが異常なんだって思えて。だって、おかしくなってるのが私の頭のほうじゃないって、そんなこと証明できないんだもん。だから……あなたから頭がどう見えてるかを訊かれたときもちゃんと返事ができなかった。あのとき逃げたりしてごめん。けど、人の頭が水槽になったなんて言えば、気が狂ったと思われてもおかしくなかったから。ううん、違う。私が怖かったのは、あなたに見捨てられることだったんだと思う」 「それは、僕もそうだよ」僕は映子の手を握り返した。「この水槽頭、触れればそこにあるってわかるのに、それが本物だって確かめようがなかった。僕だって、自分たちの姿がどう見えてるかなんてまわりの水槽頭たちにはっきり訊いたりできなかった。だからそのまま……ちゃんと考えもしないまま、ただなんとなく受け入れてたんだ。ああ、これはそういうものなんだって。でも、ちゃんと向き合ってこなかったのは、きみのことがあったからなんだ。こんなの臆病で不誠実だったけど、僕は怖かったんだ。きみに嫌われることが。だから一緒だよ。僕はきみにどう思われるのか、そればっかりが不安でしょうがなかったんだ」  僕が水槽頭を持ち上げると、映子も目を……おそらくこの世界に残ったたった一対の目で僕を見た。  それから彼女は片方の手を持ち上げ、僕のアクリル板の前面、あの忌々しい穴が空いていたあたりを指でなぞった。温もりと、ほんの少しくすぐったさを感じる。 「痛かったりしない?」 「うん、気持ちいい」  映子はふっと笑うと、「結構ひんやりしてるんだね、これ」  そう言って一瞬だけ指を離し、今度は手の平全体で僕の水槽頭に触れた。  僕ら以外には誰もいない病室。射しこんだ柔らかい陽の光が傾いていく。  落ち着きを取り戻したところで僕はナースコールを鳴らした。駆けつけた医師の水槽頭は、案に相違せず白衣を着ていた。
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