あとがき

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あとがき

「地獄とは他人のことだ」  哲学者のジャン=ポール・サルトルが自作の戯曲『出口なし』で登場させた台詞です。  人間は社会という集合体の中で生きるかぎり、自分以外の他人からの衆目から逃れられず、常に監視にさらされている。組織としての秩序やモラルを維持するために役立つ体制ではありますが、同時に自らの価値観や善悪、そして生き方までもが外的要因で規定されてしまうという側面も持ちます。  そんな、誰もが誰かの監視者であるとともに観察対象である社会も、もはや過去のもの。いまや社会は相互干渉ではなく、相互発信をする場になりさらばえています。  情報伝達の技術発展は目覚ましいもので、いまや一般人でさえ指先ひとつで自らの考えを全世界に伝えることができます。我々はそこで、幸福や不幸、誰かの称賛や批判を日々誰かに伝えています。  かつての地獄はその業をさらに深め、人間は自ずとその奥底へ飛びこんでいるように思えてなりません。  この作品では、そんな地獄のひとつの形を表現してみました。  人が人に情報を流しこむ世界。  生身の身体を捨てた水槽頭たちは、そのアクリル板をスクリーンにしてそれぞれの思考、趣向を映し出しています。頼んでもいないのにそれを不用意に曝け出すのは異常と言えますし、自分の水槽頭の中身を他人に移すのは生殖行為、ともすれば強姦のようでもあります。  リチャード・ドーキンス著の『利己的な遺伝子』では、生物は遺伝子を運ぶための乗り物だとする考えを論じていますが、水槽頭は同書籍に登場する文化的遺伝子(ミーム)の乗り物だと言えます。  しかし実際のところ、水槽の中は空っぽでただ天文学的な現象を説明するだけに存在する仮説上の物質、暗黒物質(ダークマター)のようなもので満たされているにすぎません。  水槽頭たちはその実存を信じ、自分たちが実体あるもののように振る舞うのです。  生身から水槽へと頭がすげかわった主人公たちがこれからどこへ行きつくのか、もしかしたら現実世界を観察していればわかってくることなのではないでしょうか。  さて、不穏な後書きの末筆とはなりますが、いつもながらここまで読んでくださった読者の方々へは感謝をお伝えします。  そしてこの作品においては、構想のインスピレーションを与えてくれた逆木サカさんへも格別の感謝を、この場を借りて伝えさせていただきます。  逆木さんとしばしば深夜まで行っている通話しながらの執筆作業で何気なく交わした会話が、この作品が生まれるきっかけとなりました。もしかするとこれも一種の、文化的遺伝子の交配と言えるのかもしれません。  そういえば、あのとき使っていたのはスマートフォンの無料通話アプリでした。そう考えると、情報化の極致に到達したこの時代も、そう悪いものではないのかもしれませんね。    2024年7月 千勢 逢介
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