第一話・そういうものだ

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 そんな僕に決定的な出来事が起きたのは金曜日、仕事に疲れた身体を引きずるようにして参加した飲み会でのことだった。  最初の盛り上がりから落ち着きを取り戻していくと、自然といくつかの小さなグループができあがっていく。そこで僕と同席していた同僚が、こんなことを切り出してきた。 「俺さ、このあいだすごいの見ちゃったよ」  ジョッキを持って身振りしながら同僚が言うと、テーブルの向かいに陣取っていた二人の女子社員がしきりに頷き、水槽の中身をちゃぷちゃぷと揺らした。 「一昨日……だったかな。ちょうど仕事の帰り道だったんだけど、トラックと原付が事故起こしててさ」  女子社員たちが短い悲鳴をあげる。表情こそ見えなかったが、彼女たちが恐怖ではなく興味を抱いていることはわかった。 「とにかくさ、これ見てよ」  そう言って同僚はジョッキを置くと、自分の水槽頭を挟むように側面に両手を押し当てた。そうして僕は、ここ数日のうちでもっとも大きな水槽頭の変化を目の当たりにした。  それまで全体を覆っていた黒が薄れて灰色になり、次いで様々な色彩があらわれた。いや、それは色彩というより映像だった。  同僚の水槽頭がある種の画面となって、高速道路沿いの側道で起きた事故現場の映像を流しはじめる。  中央分離帯に張り巡らされた金網フェンスにはトラックが突き刺さっており、その手前では横転した原付バイクと、そこからはずれた部品類や破片が散らばっている。  そうしたなかで一人の男性が仰向けに横たわっていた。彼もまたヘルメットの代わりに水槽頭を首の上に据えており、ブルゾンに包まれた胸が苦しげに上下していた。 「びっくりしたね」映像の向こうから同僚が言う。「たまたま居合わせたもんだからもう慌てちゃってさ」 「どこであったんですか?」女子社員の一人が訊ねる。 「駅とは反対方面にある高架下だよ。どう? この映像欲しくない?」  身を乗り出す同僚に対して、女子社員たちが浮かべたのは薄っぺらな愛想笑いだった。 「おまえはどう?」同僚が僕のほうを向いて言う。「持ってればさ、注目されるよ」  誰に注目されるというのだろう。疑問を口にするよりも先に、同僚が立ち上がって僕の肩に手をかけてきた。 「遠慮すんなって。いらないなら消せばいいだけなんだからさ」  動くなよ。そう言って同僚が座ったままの僕に覆いかぶさるようにして腰を折る。アクリル板のない水槽頭の上部のふちから中身が盛り上がると、一つの黒いかたまりとなって僕の水槽頭へと流れこんできた。  その直後、先ほどまでアクリル板の表面で見ていた事故の映像がより鮮明さを増した。というより、僕はその当時の同僚として事故現場に立っていた。  視界の左右には歩道と車道を隔てるガードレールが敷かれており、そこに沿うようにして野次馬の水槽頭たちが鈴なりになって並んでいた。その視線の先、彼らを観客に演じる舞台役者のように、事故に遭った水槽頭が車道の上でぽつんと横たわっていた。  集まった群衆は助ける素振りもなく、彼が苦しげにもがいている姿をただじっと見つめていた。周囲の出方を窺うあまり、率先して救助に向かうのをためらっているのだろうか。  だが、彼らがその場を動かなかった理由はすぐにわかった。この光景とともに、同僚の思考も頭の中に流れこんできたからだ。  はたして、同僚の思考はある種の功名心に支配されていた。注目される、という彼の言葉も完全な意味で理解できた。  それは、つまらない日常に刺激をもたらしてくれる出来事に対しての無思慮で脊椎反射的な行動であり、人命救助よりも優先される愚かな行為だった。あるいは、その場に集まった連中は何も考えていないだけなのかもしれない。  倫理観も人道的な思想もなく、黒い中身以外は何も入っていない虚ろな水槽頭。 《割っちまえ》どこからか、そう声が聞こえた気がした。《苦しいんだろ。だからほら、割っちまえってば》  流しこまれた記憶、すなわち過剰な情報の最中に放り出されたような窒息感をおぼえていた僕は、両肩をよじって同僚の拘束から逃れた。それから右手でこぶしを握り、前面のアクリル板に叩きつける。  ただし同僚ではなく、僕自身の水槽頭に対して。  アクリル板の左下に亀裂が入り、小さな穴が空く。そこから細い線となってほとばしった中身が床に触れる前に蒸発していくそばから、僕の水槽頭の水位は徐々に下がっていった。それと同時に事故現場の映像と、息苦しさも薄れていく。  代わりに視界に入ったのは、同僚と二人の女子社員の姿だった。彼らは一様に身構えており、座った姿勢のまま少しでも僕から距離をとろうとしているようだった。 「あのさ……」同僚がテーブルに置いたジョッキの隣に手を置いて言う。「俺も悪ノリが過ぎたけど、さすがにそれってどうよ?」 「ごめん」なんのことかわからないまま僕は言った。「でも、あんまり苦しかったもんだから。息ができなくて」 「苦しいって、何がだよ? ていうか先にそう言ったじゃねえか。嫌ならあとで消せばいいって。それを、普通そこまでするか?」  女子社員たちもしきりに頷いている。僕は僕で、なぜこうまで責められているのかが理解できなかった。 「その人……」僕は言った。「その人って、どうなったの? 事故に遭ってた人のことだけど」 「さあね?」天板を指先でとんとんと叩きながら同僚が首を傾げる。「俺もちょっと見たあとに立ち去ったからよく知らないね。あのさ、いま関係あるのか、その話?」 「だって、事故が起きたんだろ? 怪我とか、もしかしたらもっとひどいことになってるかもしれないじゃないか」 「だから知らねえって」  同僚はそう言って背中を向けると、持ち上げたジョッキを水槽頭の前面に近づけた。女子社員たちは何かを囁き合ったあとでそそくさと立ち上がり、二人そろってよそのグループへと移っていった。  しばらく重苦しい沈黙が続いたあと、同僚も立ち上がって僕から離れていった。わけわかんねえよ。そんな捨て台詞を残しながら。  僕は思った。わけがわからないのはこっちのほうだ、と。
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