第二話・表と裏

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 ある朝目覚めた僕は、自分の頭が水槽になっていることを知った。  僕だけではない。老若男女を問わずすべての人の頭が外枠とアクリル板が組み合わさった立方体か、そうでなければハートやにっこり顔のイラストになりさらばえていた。  それから一週間もしないある夜、同僚から受けた仕打ちに堪えかねた僕は、自分で自分の水槽の一部を割ってしまう。  アクリル板に穴が空いたからか、それとも黒い中身がそこから流れ出して空っぽになったせいか、僕はそれ以来ほかの水槽頭の中を覗きこめるようになった。  時を同じくして、僕はメメと名乗る何者かが語りかけてくる夢まで見るようになってしまう。  激しい身のまわりの変化に、僕はめまいと孤独を感じていた。  そのきわめつけが、水槽頭だらけのこの世界で唯一生身の頭を持ち続けている僕の恋人の登場だった。  自分の頭が水槽にすげかわっていることをたいした抵抗もなく受け入れられた僕もこの事実には驚かされ、もはや存在しなくなった口からはなんの言葉も出せずにいた。  彼女はここを訪れるまでのあいだ、何人の水槽頭を目にしてきたのか。その存在をどう認識しているのか。そしていま、僕のことがどう見えているのか。 「何? どうかした?」テーブルの向かいに座る僕の恋人が首を傾げる。  次々と浮かんだ疑問を一つも質問に変えられないまま、僕らは二駅隣にある喫茶店に来ていた。彼女の質問に対する答えに窮してはいたものの、寄せられた眉根やいつまで経ってもなおらないストローの噛み癖を見るにつけ、僕はひさしく感じていなかった安堵をおぼえていた。  それだけではない。自宅で僕の身支度を待っているあいだにテレビを見て笑ったり、喫茶店での注文を決めあぐねてメニューとにらめっこをしたりと、ころころと表情を変える彼女をかけがえのないものに感じた。 「別に。今日は連れ出してくれてありがとう」 「なによ、急にあらたまったりして」 「最近色々あったからさ。いい気分転換になったよ」 「ふうん。昨日の飲み会はどうだったの?」 「いつもどおりだったかな」言いながら、僕の脳裏では同僚との一件がよぎっていた。僕と同じように、彼女も僕の水槽頭の一部が割れているように見えているのだろうか。「けど、それもあって疲れてるのかも」 「ああいう場、あんまり好きじゃないもんね」 「まあ、仕事の付き合いだからしょうがないよ」  そこへ店員の水槽頭が昼食、ともすれば僕にとっては遅めの朝食を持ってきてくれた。  僕の恋人は店員に礼を言うと、カラトリーから取り出したフォークを渡してくれ、それから自分のために取り出したもう一本を指に挟みこんで両手を合わせた。 「いただきます」彼女が目を閉じて言う。  こうした僕らのやりとりをよそに、隣のテーブルではカップルの水槽頭が料理の皿にアクリル板の前面を向けて身動きを止め、しばらくしてからお互いの皿を交換してふたたび動かなくなり、といった行動を繰り返していた。 「どうしたの?」パスタを口に運びながら、恋人が訊ねてくる。 「いや、別に」無意識のうちに注視しすぎていたのだろう。僕ははじかれるようにして隣のカップルから恋人に向きなおった。「きみって、いつも料理が出てきたらすぐに食べるよね」 「そうだね」頷きながらも、彼女はフォークを回す手を止めなかった。「だって、もたもたしてたら冷めちゃうじゃない? 私はなるべくできたてを食べたいし、作ってくれた人もそうしてほしいんじゃないかな?」 「そういうものか」  僕はふたたび隣のテーブルにそっと視線を向けた。カップルは、今度はそれぞれの皿を水槽頭の真横まで持ち上げてポーズをとりはじめている。そのアクリル板の向こうには黒い中身ではなく、いましがた彼らがじっと見つめていた料理が浮かんでいた。 「そういうもんだよ。ほら、食べなよ。いらないなら私がもらっちゃうよ」  急かされるようにして僕はフォークをアクリル板の前面へと近づけた。麺が目の前で消え、ソースと絡み合った味が存在していない口の中いっぱいに広がる。水槽頭になってからの食事のとりかたもすっかり身についていた。そんな僕の様子を見ながら、彼女も口元をほころばせている。  しあわせな時間だった。水槽頭になるずっと前からしばらく感じていなかった幸福で胸がいっぱいだったとさえ言えた。目の前にいる女性が申し分なく魅力的だということにもあらためて気づかされた。  かちん、という音とともに我に返る。  視線をおろすと、パスタを巻きつけたフォークの先端がアクリル板の前面、空いた穴のすぐそばにぶつかっていた。 「ちょっと、大丈夫?」 「うん。きみに見惚れてた」 「え? なんて言ったの?」 「いや、狙いがはずれたんだ」僕はそう言って、汚れを落とすためというより気恥ずかしさをごまかすためにおしぼりを手に取った。 「狙いって……やっぱり疲れてるんじゃないの?」 「どうかな? ちょっと顔洗ってくるね」  この場合、顔、という表現は正しいのだろうか。そう思いつつ席を立つ。  トレイに向かうあいだ、背後を振り返ることができなかった。生身の頭を持っている彼女を尊く思ういっぽうで、自分が水槽頭であることを思い出し、ひどくみじめな気持ちになったのだ。
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