相互補完

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相互補完

天神署内に残された健児達は少し疲れた様子だった。 特に浦田幸子の心労は誰しも察することが出来た。 今回は拉致、誘拐を視野に入れているので、婦人警官を浦田幸子の家に配置する措置が取られることになった。 現時点で刑事課には女性は配属されていないため、少年課に応援要請を出した。 また機材の搬入も必要なため、手の空いている刑事課職員は準備に追われていた。 その間健児はロビーチェアに座ったまま、「トン、トン、トン」とゆっくりとした一定のリズムで左太ももの上にある左手人差し指を動かしていた。 健児の横に座る優子はそれに気がついていたが声はかけずにいた。 正確には声をかけるような雰囲気ではなかった。 彼の左手の動きは左脳の運動皮質を刺激し、その繰り返しが彼の集中力を高めていた。 その瞬間、健児の脳内では、右脳の海馬と前頭前野が連携して過去の出来事を詳細に再現していた。 これは、右脳が記憶の視覚的要素を処理し、前頭前野がそれを組織化し、分析するためである。 健児の表情は思考を加速させるように、時折目を開けたり閉じたりしてた。 これは、視覚的な情報を一時的に遮断し、内的なイメージに集中するための反応であった。 呼吸は浅くなり、瞑想やトランス状態に入る際に見られる生理的変化がこっていた。 心拍もやや低下し、全身の筋肉がリラックスしていく感覚が広がった。 この状態になると、健児の脳は高度に集中し、過去の出来事をまるで現実のように再体験していた。 視覚皮質と前頭葉の協働により、記憶は鮮明な映像として彼の意識に浮かび上がり、まるでその場にいるかのような感覚が彼を包み込んでいた。 それは池上優子が事務所にくる前の起床時から始まった。 健児は起きてすぐに菓子パンを頬張り牛乳で流し込むと、顔を洗い、歯磨きを始めた。 それが終わると電気かカミソリでヒゲを剃り、そそくさと身支度を整え自宅を出た。 その日の朝は事務所ではなく博多駅の中にあるカメラ店にまずは向かった。 そこで月曜日に出した写真とネガを朝一番に受け取ると事務所のドアを開け、事務員兼お客様相談係をやってくれている西島和子と朝の挨拶を交わし自分のデスクに座った。 椅子に座った健児は写真を取り出し報告書に添付する写真を精査し始めた。 その間に西島和子はコーヒーを入れる準備をしていた。 西島和子自身はお茶派だが健児はブラックコーヒーが好みであった。 健児はインスタントでもいいのだが西島和子は親切にも、わざわざお湯をコーヒーの粉にゆっくりと注ぎ、紙フィルターを通して抽出されたコーヒーを出してくれるのだ。 そしてコーヒー豆の銘柄は西島和子がいつも選んでくれていた。 西島和子の今日の気分はモカのようだ。 モカの豆はその特有のフルーティーな酸味とチョコレートのような甘さで知られており、袋を開けると、ふわりと漂う香りが心をくすぐる。 そして挽いているコーヒー豆を適量、紙フィルターに入れ、その横でコーヒーケトルが音を鳴らすと、ガスのスイッチを切り丁寧にお湯を注ぎ始めた。 お湯を注ぎ始めると、モカ特有の香りが徐々に広がり、部屋全体を包み込んだ。 その瞬間、西島和子は目を閉じ、香りを深く吸い込んだ。 その時「うん~」と思わず声が漏れた。 フルーティーな酸味と共に感じられるチョコレートの香ばしさがたまらかったからだ。 お湯がゆっくりとコーヒー粉を通り抜け、モカコーヒーの抽出が進むにつれて、その濃厚な香りがさらに強まっていった。 西島和子が入れてくれたコーヒーは健児の元に運ばれ「はい、今日はモカです」との説明と共にカップをデスクにそっと添え、その瞬間、部屋には微かな音が響いた。 そして健児は軽い会釈と「ありがとうございます」の言葉を添えモカコーヒーを手に取り、健児は一口含んだ。 口に広がるのは、フルーティーな酸味と滑らかなチョコレートの甘さの絶妙なバランス。 健児はその味わいに目を細め、しばしその余韻に浸った。 その後、池上優子が健児の事務所に現れた。 ここから健児の脳内集中力は一気に高まっていった。 それは池上優子とのやり取りでどんな些細な事も見逃さないように、思い出していたからだった。 新聞の日付、記事、優子の言葉、メモ、写真、年賀状とあの時に出された物を注意深く思い出していると気になる点があった。 写真の日付と年賀状である。 その瞬間に健児の左手の動きは止まり、今度は右手を太ももの上に置いて人差し指を「トン、トン、トン」と一定のテンポで動かし始めた。
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