相互補完

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健児の左手の動きが止まり、今度は右手を太ももの上に置いて人差し指を「トン、トン、トン」と一定のテンポで動かし始めた。 健児はこれにより左脳をフルに稼働させていた。 左脳は論理的な思考、分析、計算、理論的な推論に関与し、言語の処理や話す、読む、書くといった言語活動において中心的な役割を果たす。 また、順序立てて物事を考え、細部に注意を払う能力に関連し、事実やデータの記憶を保持する能力にも関わっている。 健児は写真の日付と毎年送られてくる年賀状に添えられた何気ないメッセージに着目していた。 そのメッセージは一見無意味に思えるものだったが、健児の左脳はその順序と詳細を丹念に分析し始めた。 今までの出来事を論理的に整理し、無駄な情報を排除していく。 彼の頭の中で一つ一つの事実が順序立てて繋がり始め、隠された意味が浮かび上がってきた。 写真の日付には何か特別な意味があるはずだ。 年賀状に添えられたメッセージも、それがどんなに短いものであれ、そこには意図が隠されている。 健児は冷静に、論理的にそれらを結びつけていった。 そして、真実に辿り着くための鍵が浦田愛子の母親である浦田幸子だけが持っていることに気がついた。 彼は今までの記憶を左脳で再構築し、浦田幸子への質問の準備を整えた。 浦田幸子の家に配置される警官がどのよう人物であるかは些細なことであった。 警官が側にいれば、浦田幸子を狙う人間が仮にいたとしても対処できるだろうと考えていたからだ。 健児が危惧したのは警察が側にいる時、健児は浦田幸子との接触が難しくなる事だった。 元刑事とはいえ今は一般人であることには変わりはない。 遅かれ早かれ健児も参考程度に調書を取られるだろう。 そう考えた健児は今ここで浦田幸子から話を聞き出すしかないという考えに至った。 確かに浦田幸子には疲労が伺えたが今は目の前の問題に集中するしかなかった。 健児の左脳は、写真とメッセージの裏に隠された真実を突き止めるために、全力で働いていた。 そこでまず健児は目を瞑り浅く息を吐いた。 考えと意志が固まった健児は、まずは優子に浦田愛子と県外に旅行にいった経緯を尋ねた。 優子はその質問の意図を汲み取れずにいたが、健児が意味もなくこの様な状況で質問を投げかけるならば、何かしらの考えであることだけは理解していたので、健児の質問に対し当時の記憶を思い出し始めた。 「あの時の旅行は確か土曜日と日曜日の1泊2日のバスツアーだった」と優子は記憶を頼りに話し始めた。 その内容に健児は質問をまた投げかけた。 それは「そのバスツアーは誰が企画したのか?」といった感じである。 元々旅行は浦田愛子が言い出していたが、お互いの休みが合わないため正月のバスツアーに優子が申し込んでいた。 日本の熊本県阿蘇郡南小国町に位置する、美しい自然に囲まれた温泉地である黒川温泉のツアーであった。 黒川温泉の最大の魅力の一つは、露天風呂巡り。 「入湯手形」を購入すると、3箇所の露天風呂を巡ることができる。 これにより、各旅館の個性豊かな露天風呂を気軽に楽しむことが出来た。 しかしこの時の最大の売りは黒川温泉から国道212号経由で阿蘇スカイラインまでバスで移動して初日の出を見ることであった。 黒川温泉から阿蘇スカイラインまではバスで約50分。 それなりに早起きが必要となる。 そのため希望者のみの参加だったが、相当数がそのバスに乗り込んでいた。 初日の出の予定時間が午前7時20分だったたので、バスは午前6時を過ぎた時点で出発した。 当時の天候次第ではあったが、到着後は日の出までバスの中で待つことが出来た。 阿蘇スカイライン展望所はただの砂利が敷き詰められた駐車場である。 なのでトイレ、売店など何もない。 ただ見晴らしは絶景であった。 冷たい朝の空気が頬を刺すような感覚で、呼吸は白い蒸気となり、静寂の中に溶け込んでいく。 夜明け前の薄暗がりの中、空には無数の星が輝いていた。 展望所に到着すると、周囲には既に人々が集まっていた。 それぞれが静かに、しかし期待に満ちた目で東の空を見つめている。 その中に加わり、冷えた手をポケットに突っ込みながら、やがて訪れる瞬間を待っていた。 空は徐々にその色を変え始めた。 東の地平線が淡いオレンジ色に染まり、暗闇が薄明るさに押し出されていく。 その瞬間、心は高鳴った。 まるで自然が壮大な劇を始めるような感覚だった。 ついに、太陽の先端が地平線から顔を出した。 初めは小さな光の点であったが、瞬く間にその輝きは強さを増し、周囲の空を黄金色に染め上げていった。 優子と愛子はその光景に息を呑んだ。 阿蘇の広大な大地が、光に包まれ、眠りから覚めるように姿を現していく。 太陽が完全に姿を現すと、その温かい光が顔に降り注いだ。 冷たかった空気が、一瞬にして柔らかい温もりに変わったように感じた。 周囲の人々も、自然と歓声を上げ、カメラのシャッター音が響き渡る。 そして優子と愛子もここで写真を撮っていた。 健児が見た写真はその時に写した中の1枚だった。
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