相互補完

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もちろんそんな思い出話を聞かれた訳ではないが、優子は頭の中で過去を鮮明に思い出していた。 優子がそこまで細かく思い出していたのには理由があった。 旅行中どんな話をしていたかについて思い出すためであった。 「仕事、友人、家族、金銭とにかく何でもいいから思い出してくれ」と健児に言われたので、当日待ち合わせた博多駅のバスターミナルから阿蘇スカイライン展望所までの言動を思い出し、それを健児に話してていた。 そして今、初日の出直後の言動を思い出している優子であった。 写真を撮り終え、絶景を満喫した一行は集合時間となりバスに乗り込んだ。 そして「あっ、あの時」と優子の記憶が蘇った。 帰りのバスで愛子は「旅行はもうしばらく出来ないから、今日これて本当に良かった」と話していたのを思い出したのだ。 それを聞いた健児は「理由はわかるか?」と優子に訪ねた。 その問いに対しては少し間が空いてしまった優子であるが、今懸命に、かすかな記憶を手繰り寄せていた。 「あと少し、あと少し」と記憶を辿るが、きっかけが出てこない。 そんな時、横に座る浦田幸子に視線を送ると頭の中の記憶が一気に蘇った。 あの時愛子は25歳前で婚期を逃していた。 それは優子も同じであったが、優子には健児という恋人がいた。 愛子にも男友達はそれなりにいたのは確かだろうが、結婚どころか恋人と呼べるかも怪しいレベルの男性しか愛子の話には出てこなかった。 しかし愛子に婚期を逃した焦りはなかった。 愛子は美人という言葉が似合う女性であったので、本人が望めばとっくに結婚は出来ていた。 その彼女が結婚をしない理由の一つに浦田幸子が関わっていた。 バスの中で愛子は30歳を目処に自分の店を持つ夢を持っていた。 そこには母親である幸子も関わっていた。 店の手伝いはともかくとして、幸子の家の近くに店を出すのが愛子の夢であった。 また、幸子が地主ということもあり地元の資産家にも知り合いがそれなりにいるので、店舗を構えることはそこまで難しくないと愛子は考えていたようである。 それでも開店準備金や運転資金は自分で貯めていくつもりだとも話していた。 それで美容室との契約を給料制から完全歩合制にしてもらったことも思い出しそれを健児に話した。 それを聞いた健児は「ちょっと整理する」といって、今度は左右の手を太ももの上に置き、人差し指と中指、その2本の指を「トン」と動かし始めた。 右手2本の指を「トン」。 左手2本の指を「トン」。 ゆっくりと交互に動かしたり左右の人差し指だけを同時に動かしたりと、左右の2本の指をピアノの鍵盤を軽く叩く様に動かしていた。 今健児の脳内は右脳と左脳がそれぞれ独立して機能しているのではなく、脳の各半球を複雑に相互作用させている状態だった。 右脳と左脳を相互に補完し合いながら全体的な認知機能を高め、事件に繋がる僅かな痕跡をたぐり寄せていた。 それを目で見ているのにふとした瞬間、優子は奇妙な感覚に襲われた。 まるで、以前にも同じ場面を経験したことがあるような感覚だった。 デジャブ。 そう、それは確かにデジャブだった。 優子の意識は現在の出来事から過去の記憶へと滑るように移っていった。 まるで時間の波にさらわれるかのように、彼女の心は一瞬、過去に戻っていった。 かつてのある日、同じように彼女の目の前には健児が立っていた。 場所も状況も違うのに、その時の健児の姿が今と重なったのだ。 彼の表情、仕草、そしてその眼差し。 すべてがあの時と同じだった。 だけど少しだけど何かが違う。 しかし違うのは場所と健児が立っているか座っているかの違いだけで、それ以外の状況は過去に見たデジャブだった。 彼の右手と左手が太ももの上でリズムを刻んでいる。 その瞬間、時の流れがまるで止まったかのように感じられた。 健児の右手が太ももの上に置かれ、人差し指が「トン、トン、トン」と一定のテンポで動き始める。 その一連の動きがまるで一つの刹那に凝縮されているかのようだった。 その瞬間、優子の意識は異様なほどに鋭敏になり、周囲の世界がスローモーションで進んでいるように感じられた。 健児の指が動くたびに、空気の微かな振動が肌に伝わり、時計の針が一瞬だけ止まったかのような錯覚を覚えた。 たった1秒にも満たない時間。 だがその刹那の中で、無数の思考が駆け巡り、感情が渦を巻いた。 健児の動きは、まるで永遠の一瞬に閉じ込められたかのように、優子の心に深く刻まれた。 その刹那の中で、優子は過去の記憶と現在の現実が交差する感覚を味わった。 健児の指のリズムが、時の流れを再び動かし始めるまでの一瞬の間に、彼女の心は無限に広がっていった。 そして、時は再び流れ出し、健児の次の動きが始まった。 その一瞬の刹那は、優子にとって永遠とも思えるほどに濃密な時間だった。 そしてそれな彼女の脳にノイズが起こり一瞬で消え去った。 しかしこれが何を意味するものなのかは優子自身も分からなかった。
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