天津祝詞

2/7
前へ
/62ページ
次へ
優子はカット、シャンプー、ブローと順序良く済ませていく途中で思わぬ収穫があった。 実は愛子に恋人の噂があった。 佐藤雪子の話によれば、同じ美容室の事務と管理を任されている、六条雅彦という人物だった。 これはこのこの美容室の従業員ならば誰もが知る公然の秘密であった。 愛子自身がそれを認める事はなかったが、傍から見れば明らかに雰囲気があった。 六条雅彦は愛子と同い年ということもあるが、各店舗の女性の殆どは彼と特別な関係になることを望んでいた。 確かに六条雅彦は女性には優しく接していたが、従業員を下の名前で呼ぶことはなかった。 たまたま去年の年末に六条雅彦が差し入れを持って店に顔を出した時、彼は些細なミスを犯した。 六条雅彦に気づいた愛子がいの一番に彼に声をかけた。 その時、六条雅彦が「愛子」と名前を呼んだのだった。 初めてのことだったので、その場にいた従業員は聞き逃さなかった。 それに気付いた六条雅彦は、愛子を無視する形で佐藤雪子に話しかけ、ねぎらいの言葉と差し入れを置いて店を出ていった。 前々から愛子の様子が変わった気がしていたが、六条雅彦と愛子が隠れて付き合っている事は大体察しがついていた。 独身で優しく知的でしかもイケメン。 何処か影があるあの瞳も女心がくすぐられる。 身長は高く細身の体にいつもセンスの良い服をまとっている彼に目を奪われない女性はいないだろう。 そんな彼が芸能人だと言われても不思議ではなかった。 特に彼のミステリアスな部分が女心を蜘蛛の糸のように細く、それでいて絡みつき逃れられなくしていた。 だが佐藤雪子からすれば彼は少し変わっていた。 美容室の店長会議には3人の店長とオーナーである太宰由紀子と六条雅彦が出席していた。 六条雅彦は3,4年前の途中入社だったので、それまでは3人の店長とオーナーである太宰由紀子と店長会議は行われていた。 佐藤雪子以外の店長は全て男性であったので、 佐藤雪子は自ずと仕事以外で太宰由紀子と話す機会が多かった。 そんな経営者の太宰由紀子が時折女の顔を見せる時を佐藤雪子は見逃さなかった。 さすがに個人のプライベート、しかも既婚者の恋愛事情を聞くことはなかったが、太宰由紀子と六条雅彦が目配せでやり取りをしている様子を見た時には、二人の関係性を確証した。 それが去年の1月に行われた店長会議であった。 なので、佐藤雪子はてっきり二人は不倫関係にあるものと思っていたが、愛子と六条雅彦も明らかに他の従業員と雰囲気が違っていた。 その最中、愛子が無断欠勤したと思ったら、警察が事情を聞きに来たのだ。 何がどうなっているのか分からない佐藤雪子はオーナーに連絡を入れたが不在だったため、電話に出た六条雅彦に分かる範囲を伝えていた。 それを聞いた六条雅彦は店を閉める頃にこちらに来ると言って電話を切った。 佐藤雪子の心情は複雑であり、事態を飲み込めないまま仕事をしていた時に、優子がやって来たのだ。 そして優子との会話によってその複雑な心境を堰を切ったように話したのであったが、さすがに聞かれていないオーナーと六条雅彦の関係までは口にすることはなかった。 一方優子は、ここまでの話が聞けるとは思っていなかったので、戸惑っていたが、当初の目的は果たせたので、このまま健児の元に戻ろうと思っていた。 その時、ふと鈴の音が響いた。 それはかすかでありながらも、まるで心の奥底を震わせるような、冷たい金属の音だった。 遠くからか、近くからか、それともただの幻聴か、判然としない。 しかし、その音は次第に確かになり、空気を切り裂くように響き渡った。 ゆらりゆらりと揺れながら近づいてくる。 そして不気味に変化していく。 耳を澄ませば、鈴のひとつひとつの震えが、異界の存在を感じさせるようだった。 その音は、ただの音ではない。 そこには何か得体の知れない力が宿っているようで、周囲の温度が一気に下がった気がした。 その鈴の音が意味するものを知っているが、恐怖に震え、その場を離れることができない。 まるで見えない手がそれを揺らしているかのように、連続して鳴り響く。 その瞬間、空気が一変し、周囲の景色が歪んで見えた。 何かが近づいている、そう感じた時、鈴の音は一際大きく響き渡り、全てが静寂に包まれた。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加