天津祝詞

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優子の見る景色は普段と変わらないが、体が硬直して、スムーズに動かせない。 声も聞こえてくるが、店の入口から広がる異様な空気が、優子の五感を狂わせていた。 優子は心霊体験をいくつもしてきたが、ここまで異様な感覚に包まれたのは初めてだった。 それでも意を決し、首と目線を店の入口の方に動かした。 その時の首は今にも壊れそうな位、「ギィギィギィ」と音がするかのごとくどうにか動いている感じであった。 それでもようやく目で捉えることが出来たが、それの周囲には、何か得体の知れない黒い影がうごめいていた。 影の中には、人の形をしたものや、蛇のようにうねるもの、顔だけのものが混ざり合い、渦巻くように男の周りを取り巻いていた。 その様子はまさに百鬼夜行そのもので、恐怖と混乱が渦巻く光景だった。 顔だけの影は、男の顔の周りを不気味に漂い、じっとこちらを見つめているようだった。 優子は、その異様な光景に一瞬目を奪われたが、すぐに意識を取り戻し、それの正体を探ろうとした。 しかし、その顔に焦点を合わせることすら難しかった。 それの顔はまるで生き物のようにグニャリと変形し、その形を保つことができなかったからだ。 他にも蛇のような影がその体にまとわりつき、1匹、2匹、3匹、いや、それ以上の大小の蛇が彼の体を這いずっていた。 そのうちの一匹が、それの首筋に絡みつき、その冷たい鱗が肌に触れる音が聞こえるかのようだった。 蛇たちは、まるでその一部であるかのように動き回り、その舌先が「シューシュー」と音を立てていたように感じた。 そして優子の顔からは、ただならぬ汗が流れ、顔からは恐怖心が表情となっ現れていた。 しかも優子の心にも、恐怖が次第に根を広げていた。 その何かの顔が変形するたびに、彼女の脳裏には不吉な予感がよぎった。 何かを話そうとしているように見えるその口元からは、意味不明な音が漏れ出していたが、その言葉は部屋自体の異様な空間に吸い込まれ、聞き取ることができなかった。 その時、それの目が突然優子を見据えた。 その瞳には、底知れない闇が宿っており、彼女の心臓は一瞬で凍りついた。 彼女はその目を見ただけで、それがただの人間ではないことを確信した。 それの周りの影は、ますます激しく渦巻き、百鬼夜行の妖怪たちが、まるで彼に引き寄せられるかのように集まっているかのようだった。 蛇たちはさらに密集し、それの体に絡みつき、その舌先でそれの肌をさえずるように撫で回していた。 優子は、その光景に耐えられず、目を背けようとした。 しかし、その時、それの声が彼女の耳元で響いた。 「お前も、こっちに来るか?」その言葉は、彼女の精神を鋭くえぐり、恐怖が全身を駆け巡った。 部屋の中は異様な静寂に包まれ、異形な姿と、百鬼夜行の様な影が踊る光景が優子の意識に確実に刻まれた。 彼女はその場に立ち尽くし、冷たい汗が今度は背中を伝った。 彼女の心には、これまで感じたことのない恐怖が刻まれていた。 だが、この出来事は刹那のように過ぎ去った。 さっきまで視えていたそれは、男性であった。 そう、紛れもない人間だった。 そして、身体の硬直が解けた事が分かると、優子は冷静さを装った。 「それでは帰ります」と佐藤雪子に声をかけ店を出ようとした時に、その男性が「ありがとうございました」と優子に声をかけた。 同じ様に従業員たちも「ありがとうございました」と声をかける中、佐藤雪子がその男性を後ろから指さして目配せをした。 それを見た優子はあの男性が六条雅彦だと確信した。 そして愛子が殺されたであろう時に視えた、どす黒い影に歪んで視えた男性が彼であるとも確信した。 しかし優子は無防備な状態で瘴気に当てられていた。 日本の伝統的な信仰や民間伝承では、瘴気は悪霊や邪気、病気を引き起こすとされていて、人間に不幸や災いをもたらすと考えられており、そのため非常に忌み嫌われている。 それをまともに受けてしまった優子は健児の元に急いだ。
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