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一方健児は、人の流れが多いい場所だったので、一定の時間を置いて立つ位置を変えていた。
事前に用意していたビニールジャンパーはこの時には重宝したが、足元の寒さは防ぎようはなかった。
それでも、健児はトイレは最初に行ったきりで、それ以降はビルの入り口付近から離れなかった。
そもそも、優子一人を店に行かせることすら、葛藤があった。
ここまで捜査してかなりの進展があったが、健児にはある秘密があった。
その秘密を健児は他者に話すことが出来ずにいて苦しんでいた。
秘密を話せない事とが苦しいのではなく、別の事が健児を苦しめていたが、今の健児を作り上げたのも、その縛りがあるからだとも言える。
実は健児自身もこの秘密について、明確な答えは持っていないが、分かっていることは祖父から聞いた、祖先の言い伝えだけである。
しかし、その言い伝えがどこまで事実なのか、健児に知る手立てはなかったが、健児の身に起こっていることは間違いのない事実であった。
そのため健児はこの場所を離れる訳には行かなかった。
健児の推測が正しければ、優子の身に危険が及んでも不思議ではないからだ。
ただ、次の下弦の月。
1994年3月5日の夜、下弦の月に優子は死ぬかも知れない。
いや、正確には「死んだ」と言った方が正しいのかも知れない。
その時、優子は一人で事件の真相に辿り着こうとしていた。
そして健児はそれを後で知る事となった。
健児自身、自分の身に何が起こっていているのか、今だに理解できずにいたが、仮にそれらが夢であったとしても、 それらを夢だと健児は思っていなかった。
健児の身に起こっている不思議な現象は、祖父である佐々木盛平から伝え聞いた佐々木家に伝わる、口伝からの考察であった。
八幡太郎義家(源義家)の弟である新羅三郎義光(源義光)を流祖とし、甲斐武田氏に伝えられ、甲斐武田氏の御滅亡後は会津藩主・保科氏(会津松平氏)や甲斐武田氏の末裔を称する会津坂下の武田氏に引き継がれ、その後、御式内として会津藩の上級武士にのみ極秘裏に教授されたと言われる柔術が健児の家に伝わる柔術である。
その後、様々な形で世に広まっていたが、その殆どが技の凄さに目を奪れていたが、その裏の歴史について知る人間は限られていた。
その術は眼の前にしても理解できなければ、再現も出来ず、相手によって、四方八方に技が繰り出される。
これは中国拳法の八卦掌のごとく、相手の力を利用し何倍にして返すがごとく妙技である。
しかし、四方八方とはそもそも占いから発生したものである。
そして現代では「易」と呼ばれ占いに用いられる言葉と変化している。
占いとしての易は中国の殷の時代まで遡り、当時は亀の甲を焼いて、そのひび割れの形で吉凶を占っていた。
その後、周の時代に入ると亀の甲が入手しにくくなったため、「めどぎ」という多年草の茎を使った方法に変わり、のちに竹で代用されるようになり、これが現在の筮竹を使う、「当たらぬも八卦、当たらるも八卦」と呼ばれるものになってた。
日本でその元になるのが邪馬台国の卑弥呼と呼ばれる巫女の祖とされる人物まで遡る。
その後、日本に神道として形式が残り、「安倍晴明」などは世に名を残すこととなる。
またその他の多くの術師は朝廷の守護のため、六芒星などの結界を張るなど、日ノ本の安定のため影となり務めていた。
佐々木家は代々巫女や神道を司る者を守護する役目に徹して、歴史の表舞台に出ることはなかった。
日本古来の武術は昭和の初期まで天皇のボディーガードなども密かに行われていたが、旧日本陸軍との軋轢によりその任を解かれてしまった。
その煽りを受け、特別な巫女の守護職も、必要なくなった。
そして、旧海軍の誤った戦力分析により第二次世界大戦に突入。
その結果は、皆が知る事となる。
それでも当時、日本国復活を信じていた人間が、密かに暗躍していた。
表向きは武術としての復興を目指したが、戦後はGHQにより、それすらもままならなかった。
そのため、身内のみの口伝や継承といった形を取って、来る日べき日に備えていた。
健児の祖父はその末裔にあたる人物だった。
そのため柔術のみならず、巫女の守護職の重要性を健児に叩き込んでいた。
そのため父も、健児も日ノ本、つまり日本への忠誠心は人一倍位あり、警察官への道は先祖からの伝統的なものでもあった。
ただそれだけなら、政治的思想と言えたが、健児はそうではなかった。
祖父の口伝の中におとぎ話の様な巫女を守護する一族の話があった。
歴史の間に置いて、守護職は、巫女と結ばれるが、「その者は世の理に逆らいて事を成すは、苦難の道なり」と幼き日より健児は聞いていた。
そして、あの事件をきっかけに、この言葉がただの迷信じみた言葉ではなく、事実だったと知ることとなった。
健児は、身を持ってこの言葉の意味を知り、優子を守護していたのである。
そんな健児が、優子を単独で行かせるにはそれなりに理由があったが、健児自身、それが正解なのかは分からずにいた。
健児の人並み外れた考察や洞察力は、他言出来ぬ苦悩から身につけたものだ。
八方塞がりの状況を脱する為に、自然と身についたものである。
そして健児は誰にも明かすことが出来ない、もう一つの秘密を持っていた。
そして下限の月までに、真相にたどり着き、犯人にたどり着かなければと思いながら、優子の身の安全のため、ビルの入口付近から離れずにいた。
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