天津祝詞

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健児の腕にしがみつく優子の顔は、今にも崩れ落ちそうなほど青ざめていた。 冷や汗が額に浮かび、息は乱れ、まるでその場にしがみついているのがやっとのようだった。 健児は不安と焦りを感じながらも、優子をしっかりと支え、彼女の言葉を待った。 そして運転手は慎重にそして静かに動き車を走らせてくれていた。 それでもタクシーの中の優子は時折、苦しげに胸を押さえたりもした。 優子が唱え始めたのは天津祝詞(あまつのりと)だった。 古代から伝わるこの祝詞(のりと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)や 天つ(あまつかみ)に捧げるものであり、高天原(たかまがはら)に住まう神々へ祈りを捧げる際に用いられる。 彼女の声は次第に強さを増し、祈りの言葉が空気に溶け込むように響き渡った。 「高天原に神留(かむづま)ります神漏岐(かむろぎ)神漏美の(みこと)()ちて……」 優子の声は一層力強く、霊的な力が込められたかのように、空間を浄化するような響きを持ち始めた。 しかし、優子自身もその瘴気(しょうき)の強さに圧倒されていた。 彼女の唱える祝詞が、体内に入り込んだ瘴気(しょうき)を追い出そうとするが、その邪悪な力は並みのものではなく、優子の(はら)いの力を押し返そうとしていた。 「八百万神等(やおよろずのかみたち)神集(かむつど)へに(つど)(たま)ひ……」優子は必死に続けた。 彼女の声には、これまでの経験では感じたことのない焦りと苦しさがにじみ出ていた。 健児はその様子を見守りながら、彼女がただの人間ではないことを改めて感じた。 彼女の存在そのものが、この世のものとは違う何かを感じさせたのだ。 「神議(かむはか)りに(はか)(たま)ひて……」 その瞬間、タクシーの中が静寂に包まれたように感じた。 祝詞(のりと)の力が優子を取り巻く瘴気(しょうき)をじわじわと押し戻し始めていた。 しかし、それは一進一退の攻防戦であり、優子の祈りがその場の全てを支配しているかのようだった。 「()皇御孫命(すめみまのみこと)神留(かむづま)ります(いつき)(まつ)(いの)りの事の(よし)を……」 彼女の声が徐々に小さくなり、力を失っていく。 しかし、その声は決して途切れず、健児は祈りが続いていることを確認した。 その時、タクシーが優子の実家に到着し、健児は優子にそのことを告げた。 優子は祝詞(のりと)を締めくくり、目をゆっくりと開いた。 彼女の顔にはまだ苦痛の痕跡が残っていたが、瘴気の侵食は確かに抑えられていた。 しかし、その戦いはまだ終わっていない。彼女の目に宿る決意が、これからのさらなる戦いを予感させた。 タクシーを降りると、優子は健児の助けを借りながら実家の門をくぐった。 彼女が深呼吸をし、一瞬だけ顔を上げると、優子は再び健児に頼んだ。 「この先は私一人で……」 健児は戸惑いながらも、彼女の言葉に従った。 そして、彼女の後ろ姿を見送りながら、その背中に宿る強さと、神秘的な何かを感じ取った。 彼女はただの人間ではない、そう確信する瞬間だった。
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