天津祝詞

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優子の実家は古い日本建築であったが庭には深く静かな井戸があり、この家に代々伝わる清めの場所として崇められてきた。 この井戸があるからここに住んでいると言っていいのかも知れない。 それほど、この井戸は意味のあるものであった。 井戸は、禊ぎ(みそぎ)の場として神聖視され、その水は(けが)れを清め、魂を浄化する力が宿ると信じられている。 実家に着いた優子は祖父の指示に従い、3月の寒空の中、神聖な井戸水で身を清めることとなった。 冷たい水が肌を刺すように感じたが、これは(みそ)ぎの一環であり、心身を浄化するための重要な儀式であった。 また優子自身はそれを理解していた。 (みそ)ぎとは、神道において神聖な行為を行う前に、心身の汚れを水で清める儀式であり、古来より伝統的に行われてきた。 優子は震えながらも、祈りを込めて水を体にかけた。 その冷たさは心身の浄化を象徴し、体内に溜まった(けが)れを洗い流すための苦行であった。 体を清め終えた後、優子は庭に設けられた低い石段を上り、家の中の祭壇へと自ら向かった。 祭壇は、この家の神聖なる中心であり、祖先や神々に祈りを捧げる場所である。 優子が禊を行っている間、祖父と父は祭壇の準備を進めていた。 祭壇の前には、白い布が掛けられた低い卓があり、その上には御幣(ごへい)大麻(おおぬさ)が供えられていた。 御幣(ごへい)は、木の棒に紙垂(しで)や麻が取り付けられたもので、神聖な力を宿すとされる。 御幣(ごへい)は、神々との繋がりを象徴し、祓い《はらい》の際に使用される。 大麻(おおぬさ)は、紙垂が付いた長い木の棒で、祓いの儀式において神職が振るい、清めを行うための重要な道具である。 これらの道具は、神聖なる力を呼び覚まし、穢れを祓い清めるために用いられる。 家の中は厳かな雰囲気に包まれ、外の風さえも静まり返ったかのようだった。 今は、父と祖父そして母も加わり慎重な動作で準備を進める中、優子は祭壇の前に正座し、目を閉じた。 心の中で祈りを捧げながら、これから始まる儀式に対する不安と緊張が身体中を駆け巡った。 準備が整い、「これより、天津祝詞(あまつのりと)奏上(そうじょう)し、(けが)れを祓う」と祖父の低い声が響く。 天津祝詞(あまつのりと)は、神道において重要な祝詞(のりと)であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめとする天津神(あまつかみ)に対して唱えられるものである。 天津祝詞(あまつのりと)には、神々の加護を祈り、(けが)れを払い清める力があるとされる。 祖父は大麻(おおぬさ)を持ち上げ、静かに振り始めた。 大麻(おおぬさ)が揺れるたびに、紙垂が神聖な音を立て、空気が張り詰め、優子の心もまた引き締まっていく。 父が先に御幣(ごへい)を手に取り、優子の体の周りを清めるように振り始めた。 御幣(ごへい)が揺れるたびに、まるで空間自体が浄化されていくかのような感覚が広がった。 この動作は「振り祓い」と呼ばれ、(けが)れを払うための最も基本的な動作である。 次に母がその動作を受け継ぎ、(はら)いの儀を続ける。 祓いは、神道において(けが)れを取り除くための重要な儀式であり、心身の浄化と再生を象徴する。 その間、優子は胸に広がる重い感覚に耐えなければならなかった。 (けが)れが体から剥がされるごとに、身体中が痛み、苦しみが増していく。 だが、彼女は決して声を漏らさなかった。 (はら)いの儀式が終わるまで、自らの内なる(けが)れを完全に祓い去るまで、彼女は耐え抜いた。 儀式は数時間に及び、その間、優子は何度も意識を失いかけた。 だが、父と母、そして祖父の(はら)いの動作が続くたびに、彼女は現実に引き戻された。 (はら)いは単なる儀式ではなく、魂と身体を浄化し、新たな生命力を与えるものである。 優子はこの試練を乗り越え、新たな自分へと生まれ変わろうとしていた。 一方で、健児はその間、祖母と共に別室で待っていた。 祖母は優子が受けている(はら)いの意味を理解しており、彼女の無事を祈りながら、健児に古い言い伝えを語り始めた。 「瘴気(しょうき)というのはな、健児、昔から人々の命を奪う恐ろしいものだと言われておった。それは目には見えないが、確かに存在し、時には人の心に巣食うこともあるんじゃ…」。 祖母の声は穏やかでありながら、その話には深い重みがあった。 瘴気(しょうき)は、古代から伝わる言い伝えで、(けが)れや悪しき気を指し、それが人々の健康や運命に悪影響を及ぼすと信じられてきた。 健児は静かに耳を傾け、優子のことを心配しながらも、祖母が語る瘴気(しょうき)の恐怖に心を揺さぶられていた。 「だが、(はら)いがなされれば、瘴気(しょうき)は消え去り、清らかな魂が戻ってくるんじゃ。だからこそ、優子が今耐えている儀式は、とても大切なものなんだよ」。 祖母の言葉が終わる頃、(はら)いの儀式もようやく終わりを迎えようとしていた。 優子は祭壇の前で、深く息を吐き、そして静かに目を開いた。 その瞳には、苦しみを乗り越えた者の強さが宿っていた。 彼女の魂は再び清められ、祓いの力によって新たな命が吹き込まれたのだった。
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