六条忠雄

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六条忠雄

江戸時代末期、日本は厳しい鎖国政策のもと、外国との交流を厳しく制限していた。 しかし、唯一の例外として、オランダだけが長崎の出島を通じて日本と交易を続けていた。 この限られた交流の中で、オランダからは西洋の学問や技術が伝わり、その中には「蘭方医学」として知られる医学も含まれてた。 当時の日本では、医療の主流は中国から伝わった漢方医学だった。 五行説や陰陽説に基づいた理論と治療法が広く用いられ、漢方薬や鍼灸が一般的だった。 しかし、18世紀後半に入ると、西洋からの科学的な知識が徐々に日本に伝わり、それまでの医学観に大きな変革をもたらした。 その変革の象徴とも言える出来事が、1774年に出版された「解体新書」でしある。 オランダの医学者ヨハン・アダム・クルムスが著した解剖学書「ターヘル・アナトミア」を、日本の医学者である前野良沢と杉田玄白が翻訳したこの書物は、日本における西洋医学の基礎となり、特に解剖学においては従来の漢方医学とは異なる科学的なアプローチが強調されていた。 この時代、日本各地で蘭方医学を学ぶ医師たちが現れ、彼らは西洋の医学書を独自に翻訳し、治療法を学び、日本の医療に応用し始めた。 特に長崎の出島でオランダ人医師から直接学んだ医師たちは、蘭方医学の普及に大きく貢献した。 彼らは解剖学や病理学を学び、それまでの日本では考えられなかった科学的な視点から病気の原因を探求し、治療に取り組むようになった。 しかし、蘭方医学の普及には多くの障害もあった。 仏教や儒教の影響が強かった江戸時代の日本では、人体を切り開くことは神聖な身体を汚す行為とみなされ、宗教的なタブーとされていた。 解剖を行うには厳しい制約があり、主に犯罪者や無縁仏といった身寄りのない死者に限られていた。 それでも、蘭方医学に魅了された一部の医師たちは、密かに人体解剖を行い、その知識を深めようとしていた。 六条家の三男である忠雄もまた、蘭方医学に強く惹かれ、その科学的な魅力に取り憑かれてい他一人であった。 彼は解剖学の知識を深めるために、禁忌を犯してでも人体を切り開きたいという欲望に駆られ、次第にその道を踏み外していった。 忠雄は、解剖学書である「解体新書」に記された人体の構造に魅了され、それを実際に確かめたいという欲求に駆られてしまった。 しかし、仏教的な教えや社会的な禁忌により、生きた人間を解剖することは許されてはいなかった。 なので彼は最初、無縁仏や犯罪者の遺体を使って解剖を行っていたが、次第にそれでは満足できなくなってしまった。 長兄が蘭方医学を学ぶために長崎へ向かった後、忠雄は六条家の影に隠れた存在として、京都の家に残っていた。 彼は長兄が持ち帰った蘭方医学の書物を盗み見ては学び、自分こそが蘭方医学の真髄を極めるべきだと信じるようになっていた。 しかし、家督は長兄が継ぐものと決まっており、忠雄の将来には限りが見えていた。 そんなある夜、忠雄は荒れ果てた寺院の境内で一人の乞食と出会った。 乞食自体は珍しくなかったが、この様な人気のない場所に一人とは、訳有では無かろうかと、ゆっくりと近づいた。 それでも、動く様子もなければ、他に人は居ないようだった。 そこで意を決しその乞食に近づき声をかけたが、目はくぼみ、頬はこけ、手足はやせ細り、かすかに息をしているように見えた。 そこで忠雄は「お主,、大事ないか」と声をかけ周りを見渡した。 乞食からの返事も無ければ、周りに人の気配もなかった。 その状況が忠雄の何かを狂わせてしまった。
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