六条忠雄

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忠雄がその寺院に足を踏み入れた時、夜の静寂がすべてを包み込んでいた。 月明かりも届かぬほど鬱蒼と茂った木々が、境内を覆い隠している。 風が通り抜けるたび、古びた木々が軋む音が遠くから聞こえ、冷たい霧が地面を這っていた。 寺院の本堂は崩れかけ、黒ずんだ木材がむき出しになっている。 屋根は破れ、天井には穴が空いており、まるで口を開けた亡者のように見えた。 境内に散らばる石灯籠は苔むしており、その苔が生き物のように湿った空気の中でじっとりとした気味悪さを放っていた。 忠雄が足を踏み出すと、枯葉や小石がカサリと音を立て、足元に何かが擦れる感覚が伝わった。 彼は一瞬立ち止まり、周囲を見渡すが、濃い闇の中では何も見えない。 ただ、不気味な静寂が広がっていた。 まるで、この場所自体が彼を拒絶しているかのようだった。 それでも、その乞食に近づくと、男は病に冒され、死の淵に立たされているようだった。 忠雄は彼を治療するふりをして、殺害し、その身体を自らの手で血に染め解剖を行ってしまった。 寺院の裏手には、かつての墓地があり、その一角に粗末な小屋があった。 小屋の扉は錆びつき、半ば壊れており、かすかな隙間からは腐敗した木材の臭いが漂っていた。 忠雄はその小屋に乞食の身体を運び込み、内部を見回した。 小屋の中は、腐った木の床が一部剥がれ落ち、土がむき出しになっている。 その土は湿っており、まるで無数の手が地中から這い出そうとしているかのようだった。 壁には蜘蛛の巣が絡まり、空気は淀んでいて、鼻をつく悪臭が漂っていた。 彼はそこにあった腐りかけの大きな木箱を並べ始めた。 その上に、乞食の冷たく硬直した身体を横たえると、その肌は薄暗い光の中で灰色に沈んでいた。 彼はいつも懐に入れている道具を取り出し、震える手で乞食の胸にメスを当てた。 最初の切り込みを入れると、腐敗した血が滲み出し、異様な臭いが小屋の中に充満した。 忠雄は息を殺しながら手を進めたが、そのたびに彼の耳元で、誰かが囁くような声が聞こえるような気がした。 小屋の隅で、まるで彼を見守るかのように無数の影が蠢き、壁に揺れる火の明かりが生き物のように歪んでいた。 忠雄の心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が額を伝い落ちる。 彼はその瞬間、恐怖と興奮が入り混じった感情に襲われ、逃げ出したい衝動を必死に抑えた。 しかし、それと同時に、彼の内なる狂気が確実に目覚め始めていた。 この不気味な場所で、彼は初めて自らの手で人体を切り開くという禁忌を犯したのだ。 それが彼に与えた快感は、これまで感じたことのない異様なものであり、その高揚感は彼の心を蝕んでいった。 その後、忠雄は京都を離れ、福岡藩に仕えることになった。 福岡藩には漢方医学の医師がいて、彼の下で忠雄は内弟子として奉公することとなった。 彼は蘭方医学の書物「解体新書」を父から譲り受け、福岡藩で医師としての地位を築こうと決意した。 しかし、忠雄の心には、いつしか人間を解剖することへの異常な執着が芽生えていたのであった。 忠雄の行動は次第に常軌を逸し、彼はその執念が生み出す恐怖の連鎖に囚われていった。 福岡藩の漢方医学の医師は、六条家と縁がある人物であったが、子宝に恵まれず、妻に先立たれ、この地の医療に心を痛めていた。 そこへ六条家から内弟子という形で、忠雄がやって来たことで、彼はとても喜んでいた。 忠雄が蘭方医学に関心があることは早くに分かったが、診療は漢方医学のやり方で行っていたので、気に留めることはなかった。 また、ここには蘭方医学に必要な用具も薬も揃っていないので、治療をしたくても出来ない状態であった。 忠雄の評判もよく、1年もしない内に縁談話が持ち上がっていた。 全てが順調そのものだったが、当主の田中が2年もしない内に息を引き取った。 ただ幸いなことに、忠雄は一人でも診療がで出来ていたので、亡くなった田中の変わりに藩医として使えることとなった。 そのため亡くなった田中の領地はそのまま忠雄が受け継ぐ形になり、田中の一周忌が終えた後に、縁談話が上がった商人の娘と結婚し、金銭的後ろ盾も得る事となった。 それが現在の六条病院の始まりでもあった。
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