欲情

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欲情

優子が美容院を後にすると、六条雅彦は店長である佐藤雪子に、少し早いが閉店の指示を出した。 元々、客が少なく閉店作業を行いながら優子のカットをしていたため、片付けにはそれほど時間がかからなかった。 普段はオーナーと一緒に行動している雅彦だったが、浦田愛子との連絡が取れないどころか、警察までこの店に来たことから、今後のシフトについて改めて話に来たようだ。 夕方頃、店長である佐藤雪子からおおよその話は聞いていたが、まずは今後のシフトについて話し始めた。 浦田愛子がいつ戻るかわからない状況なので、今後のシフトから浦田愛子を外し、他店舗からの応援か、臨時の美容師を入れる方向で、この3月を乗り切る方針を説明した。 また、応援という形でも、現在フリーの経験者がいれば、随時面接を行うことも話した。 今後の店の方針を話し終えた後、雅彦は「警察に何を聞かれたか」を質問してきたので、佐藤雪子は警察に聞かれたことを改めて雅彦に説明した。 警察からの質問内容は、浦田愛子の交友関係やトラブルについてが主だった。 しかし、佐藤雪子以外は見習いであるため、浦田愛子のプライベートを知る者はいなかった。 そこで、雅彦は佐藤雪子以外のスタッフを先に帰らせ、二人で話をすることにした。 「いや、僕も心配してるんですが、彼女の行き先に心当たりがなくて、あなたならご存知かと思いまして、お時間を頂いたのですが、何かご存知ではありませんか?」と、雅彦はいつものように丁寧な言葉遣いで質問してきた。 内心、佐藤雪子は白々しいと思っていたが、「全く分かりません」と答えた。 それを聞いた雅彦は笑顔で「本当に?」と再度尋ねてきたので、佐藤雪子は「本当です」と少し強い口調で返答した。 佐藤雪子は、雅彦と愛子が男女の関係であることを疑っていたが、決定的な言葉を愛子から聞いたわけではなかったため、それ以上は強く言えなかった。 ただ、この不毛なやり取りを早く終わらせたかった佐藤雪子は、「さっきいらっしゃったお客様も、愛子さんを探していたんですよ」と話し始め、池上優子が愛子の古い友人であることを雅彦に話した。 「その彼女でも知らないのなら、申し訳ありませんが、プライベートなことは私には分かりません」と言って、この会話を早く終わらせようとした。 すると雅彦は「古いご友人ですか」と呟いた。 そして少し間を開けてから、雅彦は受付ノートを取りに行き、「この池上優子さんのことですか?」と受付ノートを見ながら佐藤雪子に質問した。 「そうです。その方も愛子さんと連絡が取れないので、今日わざわざお店まで来られたんです。今日何か約束でもあったのではないでしょうか?かなり親しい友人のようでしたし、愛子さんの自宅にも行ってくれたんです」と、佐藤雪子はさらに詳しく話してしまった。 少し喋りすぎたかもしれないと思った佐藤雪子は、池上優子の話題を止め、「とにかく、愛子さんにトラブルの噂はありませんし、私も個人的なことは聞いていません」と会話を終わらせようとした。 それを聞いた雅彦は「すいません、何度も質問ばかりで」と丁寧に謝罪した。 さすがに言い過ぎたと思った佐藤雪子は、「いえ、ご心配な気持ちは分かります」と雅彦に寄り添う言葉をかけた。 すると雅彦は「長く引き止めてすみませんでした。今から僕は店の顧客名簿を事務所に持っていかなければならないので、もう上がられてください」と佐藤雪子に退社を促した。 それを聞いた佐藤雪子は、ようやく解放される気持ちから、即座に「では、お先に失礼します」と言って、自身の茶色のトートバッグを取って店を出た。 その際、雅彦に一礼すると、雅彦は佐藤雪子に手を振って答えた。 後ろを振り向いた佐藤雪子は「そういうとこなのよ」と言葉を吐き捨て、悪態をついた表情を見せた。 佐藤雪子は雅彦が生理的に嫌いで、その軽薄な立ち振る舞いと、妙に他人行儀な丁寧語が好きになれなかった。 「東京じゃないんだから」とエレベータに乗った佐藤雪子は、今度ははっきりと声に出し、溜まったストレスを発散した。 店に残った雅彦は顧客名簿を集め、いつでも店を出られたが、受付ノートをもう一度見つめていた。 その受付ノートには、優子のフルネームと住所、電話番号がきちんと書かれていた。 それを見ながら雅彦は「あの時の女か・・・」と口にした後、無言になり、受付ノートに書かれている池上優子の名前の欄を指でなぞった。 そして、本来は事務所に持ち帰る予定ではなかった受付ノートも、顧客名簿を入れた袋に入れ持ち帰った。 ビルの外に出た雅彦は、冷たい夜風に思わずコートの襟を立てた。 薄暗い夜に、街灯の淡い光が長い影を路面に落とし、その上を多くの人が通り過ぎた。 月は雲に隠れ、薄暗い空がまるで深い闇の井戸のように見える。 雅彦は顧客名簿が入った袋を握りしめながら、ふと夜空を見上げた。 黒く淀んだ空には星一つ見えず、その奥深くには何か禍々しい存在が潜んでいるかのような気配を感じた。 そして無意識に「愛子」と彼女の名を口にした瞬間、胸の奥で不穏な感覚がじわりと広がった。 欲望が心の中で渦巻き、その渦に飲み込まれそうになる。 冷え切った風が、まるで誰かが囁くかのように耳元で不気味に鳴り響いた。 思わず背筋が凍りつくような感覚に襲われ、雅彦は顔をしかめた。 だが、すぐに自分を取り戻し、タクシーを拾うために視線を前に戻した。 行き先を告げる頃には、その奇妙な欲望も徐々に収まり、胸のざわつきも次第に消えていった。 だが、心の奥底には、どこか掻き消えない欲情が微かに残っていた。 事務所に名簿が入った袋を置いた後、雅彦はすぐに部屋を出て、待たせていたタクシーに再び乗り込み自宅へと帰っていった。
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