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それから紫苑が状況を理解する間もなく鬼家で用意された大袖を着て、軒車に押し込まれ、登城し、天凱と謁見をした。経歴も実績もないので断られると思っていたが天凱は紫苑の素直さを気に入ったらしい。「明日から仕えろ」と言ってきたので紫苑は紫翠として慶王に一年間、仕えることとなった。
護衛を勤めている間は城で暮すことになる。急遽、決まったことなので紫苑はすぐ家に帰り、支度をしようと考えた。家族にどう説明しようか、必要な物はなにかな、と考えながら回廊を歩いていたところ仕事をサボったと思わしき英峰に捕まり、今に至る。
浴場では仕方ないと一度は要件を受け入れたが冷静さを取り戻した今、紫苑の心中を支配するのは「こいつが全ての元凶だ」という怒りと慶王を騙すことへの後悔だった。割合で言えば怒りが八、後悔が二ほどだ。
顔を覆う手を外し、また痛み出す胃を押さえると紫苑は「ふざけないでよ」と吐き捨てた。
「仕方ないじゃないか。作戦を練ろうにもお前は用事があって捕まらなかったし、今朝もそんな時間なかったんだから」
紫苑が心の底から屑で人手なしで人間としての道徳が欠如していると思っている幼馴染はどこ吹く風で両手を掲げて見せた。
「あなたが勝手に話を通してくれたおかげでね」
「俺だって悪いと思って、仕事を部下におつし……頼み込んでお前に会いに来てやっているんだぞ」
やれやれ、と英峰は首を左右に振る。本当に悪いと思っている表情ではない。
「前から思っていたんだが紫苑はこの事態を軽視していないか?」
「別に彼がどんな人間でも家族に害がなければ、私は構わない」
天凱の悪行は世に疎い紫苑もよく耳にする。
曰く、偵察に赴いた土地で駆け寄ってきた幼子を突き飛ばし、その家族に十日間もの投獄を命じた。
曰く、起床を促した宦官の声が不愉快だと罵った。
曰く、出された食事が口に合わないと厨を担当した者達の舌を切り落とした。
他にも慶王の責務であるのに妃との閨事を拒絶し、政務もおざなりで、日がな一日、怠惰な生活を送っていると。彼が王位を継いで早一年。善行は一度として聞いたことがない。
「慶王があんなだらけたままじゃあ、いずれこの国は滅びてしまうぞ」
おどけた様子だが、英峰なりに気にかけているのは長い付き合いからわかった。珍しく真摯な姿に紫苑は、瞠目する。
「あなたがこの国の行く末を憂うなんて……。なにか変なものでも食べた?」
「失礼なやつだな! 俺だって国を案ずることはするさ!」
「案ずるもなにも弟君がいるでしょ。今は幼いけど、いずれ跡を継ぐのは彼だってみんな言ってるよ」
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