2.嫌がらせ

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「ああ、紫苑様。おいたわしいですわ」  崔家から連れてきた侍女は目尻に溜まった涙を拭った。しかし、拭っても涙は止まらないらしい。手に持つ汚れた官服で目を押さえ侍女は先程より嗚咽(おえつ)を酷くさせた。 「もう、雨蓉(うよう)ったら。いい加減、泣き止んでよ」  あまりにも泣くものだから紫苑は筆を動かす手を止めて背後を振り返る。汚いでしょ、と付け加えると雨蓉は官服を握りつぶした。昼間、天凱によって羹に汚れた官服は、捨てるのもためらうほどに上等な絹で作られていた。洗濯し、染みが残っていなければまた着ればいいし、もし残っていれば自宅に帰った時の普段着にするつもりだ。 「あと名前。紫苑じゃなくて紫翠って呼んでね」 「しかし、あの三男坊のせいでなんで紫、……翠様がこんな目に合わないとならないのでしょうか」 「英峰のは諦めるしかないでしょ」  紫苑が遠い目をすると雨蓉がわっと泣き出した。 「なぜ、なぜ崔家の姫君が、こんな男のような格好で危険な目に……。わたくし、悔しくてなりませんわ!」 「男の格好は元々だし、ある程度の危険は英峰で慣れているから」  紫苑は襦裙のようなひらひらした着物は動き辛いと、普段は胡服(こふく)を愛用していた。さすがに崔家の姫として他所に(おもむ)く際や客人が訪れる際は襦裙に身を包み、(しな)を作っていたがそれでも胡服を着ている時間の方が長い。  危険な目とは英峰関係で破落戸に絡まれたり、借金取りに追われたり、山賊や野党狩りをしたこともある。珍しい花が欲しいという我が儘に付き合わされた挙句、崖から転がり落ちたこともあった。小さい頃は訳も分からず泣いたこともあるが英峰のおかげで次第にどんなに危険でも慣れてしまったので恐ろしいとは思わなくなった。 「それは慣れてはいけません!!」  慰めのつもりで言ったのだが間違えたらしい。雨蓉はわんわんと泣き始めた。八つも年上なのにそう見えない形相に紫苑は内心、引いた。 「いや、うん、でもね。英峰のおかげで(なめ)らかに話は進んだし、あれでも役にたつよね。みんな、すごい顔していたよ」  みんな、とは家族のことだ。祖父は遠征で留守のため、祖母と両親、兄と弟に明日から登城し、一年間、慶王付きの護衛になると言った時の表情といったら今思い出しても乾いた笑い声しかでてこない。現状を把握できず混乱していたが英峰の名前を出した瞬間、家族全員「またあいつか」と心をひとつにさせたのは分かった。  元凶が英峰だと悟った家族の顔に浮かんだのは英峰への怒りと呆れ。慶王を騙す行為に対する不安と後悔。紫苑の安全——。全てが混沌と渦巻き、共存していた。 「とりあえずあの場にお祖父様がいなくてよかった。いたら多分、こんなに円滑に進まなかったよ」 「蒼月(そうげつ)様は三男坊を嫌っていますからね」
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