2.嫌がらせ

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「——俺が有望すぎてな!」  勢いよく扉が開け放たれ、顔と官服を墨だらけした英峰が転がりこんできた。雨蓉は口をあんぐり開き、紫苑は眉間に皺を寄せた。 「なんでここにいるの?」  護衛として与えられた房室(じしつ)は教えていないはずなのに唯我独尊の屑人間は我が物顔で入り込んできた。きっと職権を乱用して知ったのだろう。せっかく昼間の緊張も解けつつあるのに違う緊張感が房室を満たすのを紫苑は肌で感じ取った。 「俺に会いたくなる頃かと思って」 「思うわけないでしょ。ていうか近づかないで。汚い」  よく見れば墨は乾ききっていない。この状況でいつものように触れられれもしたらまた入浴し直しになる。そんな面倒なことは避けたい。  しかし、英峰という人間は「やめろ」と言われればやりたくなり、「近づかないで」と言われれば近づきたくなる糞な性格をしていた。  軽薄な表情が愉快そうに歪むのを見て、紫苑の危険察知能力が働いた。椅子から立ち上がり、距離をとる。 「来るなら風呂にでも入ってきてよ」 「お前が慶王に料理ぶっかけられたと聞いて、楽しそ——んん! 心配して風呂に入る時間も惜しんで来てやったんだぞ」 「楽しむな。惜しむな。もっと隠せ」  紫苑が一歩下がれば、面白がった英峰も一歩近づいてくる。 「やめろ」 「えー、無理かな」  続いて紫苑が二歩下がれば、英峰は四歩近づいてきた。英峰が近づく度に雨蓉が小さく悲鳴をあげる。 「くだらないことする前に要件を言って」 「護衛、大丈夫そう?」  心配そうに言いながらも英峰は詰め寄ることを止めない。紫苑が壁際に追いやられ、今から起こる事を予想し、心の準備をしていた時、 「離れなさい!!」  雨蓉が叫びながら英峰の後頭部に向かって棒を振り下ろした。紫苑の鍛錬の相方を務めてくれるこの棒はいつぞや山賊狩りに赴いた際に地面に落ちていたものだ。不思議と手に馴染むので持ち帰り、宮城にも持参したのだがまさか役に立つとは思わなかった。 「雨蓉?!」  紫苑は叫んだ。聞こえてはいけない音が聞こえた。きっと、英峰の頭蓋骨は凹んでいる。 「ちょっと待って、これ英峰死ぬから!!」  混乱しているのか雨蓉が棒を構え、振り下ろそうとするので紫苑はその腕を握る。 「待って」 「けど!」 「いいから待って!」  強く言えば雨蓉は深く息を吸い、吐き出す。それを何度か繰り返し、床に伸びる英峰を見つめて、 「よし!」  拳を握った。 「よし! じゃない。やりすぎ。水持ってきて」 「大丈夫ですよ。息していますし」  扱いが酷い。紫苑も英峰に対しての扱いは酷い方だがこれは次元が違う。人権すらないのが不憫で、紫苑は初めて幼馴染に憐れみの視線を送った。 「あなたは本当に嫌われているよね」  主に崔家の人間に。
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