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1.溶けゆく赤
じわり、と水に赤が溶けていく。
音もなく、ただ静かに——。
刃物を中心に赤が水中を舞う様を、池の辺に座り込んだ女は呆然とした面持ちで観察していた。
女の名は司馬麗雪。冬桜宮を治める冬妃の席を与えられた妃嬪である。
麗雪はゆっくりと瞬きを繰り返し、ああ、と視線を地面に落とした。血に染まる自分の膝の上、青白い手首の先がぽつんと置かれている。
そっと手首に触れた。桜貝の爪先から細い指、指又、手の甲、そして血肉が乾いた傷口へ。ゆっくりと、思い出を辿るように指先を這わせた。冷たい肉片はかつての弾力はとうになく、固くなりつつあった。
(茉莉花、本当にお前は馬鹿ね)
心のなかで手首の主を罵倒する。春陽宮を治める春妃——姫茉莉花は麗雪の親友だった。
後宮という他者を蹴落とし、利用し、己を魅せなければ明日もない魔窟で唯一信用できる麗雪の大切な人。
あんな冷たくなった姿など、見たくはなかった。
麗雪は静かに泣きながら、そっと茉莉花の指に己の指を絡めた。強く握っても、昔のようには握り返してはくれない。
そのことに悲しみを覚えながらも麗雪は前を向く。
「きっと、いい方向に向かってくれるはず」
夜が明ければ、この後宮に女帝が君臨する。役立たずな慶王が見初めた女は、噂に聞くとたいそう思慮深く、他者を思いやる人物だという。
きっと、この手首を見つけた時、麗雪の考えを理解してくれるだろう。茉莉花の無念を晴らしてくれるに違いない。
「……ああ、準備をしなければ」
麗雪は涙を拭うと手首を池へと放り投げた。
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