1.溶けゆく赤

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「そんなこというものじゃないわ。とてもお優しくて私は好きよ」 「夏妃様みたいな癇癪(かんしゃく)持ちじゃないだけマシね」 「確かにね。あそこの侍女たちは八つ当たりばかりされていると聞くわ」 「新入りなんて引っ掻かれて顔に傷ができたそうよ。薬を使ったけれど、完全に消えないって嘆いていたわ」 「私、崔皇后陛下付きで本当によかったわ。……ところで、崔皇后陛下はどこにいらっしゃるのかしら」 「いらっしゃらないわね。庭園じゃないとしたら季妃様の元に? でも、お茶会って延期になったはずよね」 「慶王様のお渡りも夜の予定だし、ここ以外で行きそうな場所なんてないのだけれど」 「こんな非常事態にお渡りって本当に愚王だわ」  もうっ、と小柄な侍女が毒舌な侍女の袖をひいてたしなめる。 「そんな言い方だめよ。慶王様は崔皇后陛下を愛されているから心配なさっているのでしょう」  その言葉が聞こえて紫苑の背中に悪寒が走る。ぶるりと肩を震わせると腕を掻き寄せた。 「し、紫苑様?」  拘束が緩んだことで紫苑の腕から抜け出した雨蓉は主人の様子がおかしいことに気がついた。先ほどまで胸の内に渦巻いていた怒りの感情は霧が晴れたように薄れていき、代わりに不安に苛まれる。 「落ち着いてくださいませ。あれはただの噂、根も葉もない噂話です」 「分かっている。分かっているんだけど、鳥肌が……」  袖をめくると肌理(きめ)細かい肌は粟立っていた。 「下世話な話と言うのは好きになれないな。ここまでの鳥肌、英峰が素直に謝った時以来だよ」  なぜか寒気も感じ、暖を取るために腕をさすっているとふいに影が落ちてきた。雲が太陽を隠したのだろう、と特に気にしなかった紫苑だが妙な視線を感じ取り、(おもて)をあげる。  一番に目に飛び込んできたのは、数多の(きら)めきだった。黒絹で織られた襦裙に縫い付けられた小粒の水晶が、陽光を反射して輝いていた。肩巾(ひれ)や柳腰を締める帯は灰色に染められ、守護神である玄武の意匠(いしょう)が挿されている。 「……司馬冬妃?」  紫苑が名を呼ぶと、司馬冬妃は涼やかな目元をゆるめて、一歩踏み出した。
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