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 その一報が屯所に伝わったのは八月二十日のことである。  新撰組には今回の長州戦争でも出撃命令は出なかった。  出兵拒否で兵力を温存している薩摩藩が、京で騒乱を起こすかもしれず、それに備えるため会津藩が京に張り付いていたからだ。   新撰組は会津藩とともに京に残り、薩摩の動きを監視していた。  そんな八月二十日――。 「歳さん、大変だ」  近藤が真っ蒼な顔で副長部屋に駆け込んできた。 「どうした?」 「聞いて驚くな」 「なんだよ」 「大樹公が……亡くなったぞ」 「……えっ!」  あまりの衝撃に、全身を電流が駆け抜けた。 「まさか」 「ほんとうだ」  にわかには信じられなかった。    ――将軍が、死んだ……。  若き家茂がいったい、なぜ――。 「戦死か?」 「いいや」 「病死か?」 「厳密には、それも違う」 「じゃあ、何なんだ」 「容保様が言うには……突然死とのことだ」 「……突然死?」     大坂城内で突然倒れ、そのまま息を引き取ったという。   弱冠二十一歳の若さであった。  もともと咽喉や胃腸が弱く、脚気(かっけ)も患っていたが、最大の死因がストレスであることは疑いようもない。  思えば哀れな若者であった。  弱冠十三歳で将軍職につき、右も左も分からぬまま未曾有の激動に翻弄され、あっけなくこの世を去ってしまった。  彼にとって人生での愉しい唯一の思い出は、孝明天皇の妹である妻・和宮(かずのみや)と過ごした、ほんの短い愛の日々のみであった。 「可哀想だなあ」  近藤が同情するように、ぽつりと言った。 「ああ」と土方が頷く。「やり切れんなあ」  一寸先は闇。――というのが口癖の土方でも、さすがにこの事態は想像することさえできなかった。  将軍の死去に伴い、第二次長州征伐の停戦が発表された。  最高責任者がいなくなったことで、敗戦濃厚だった(いくさ)の陣を引き、体勢を立て直そうとの判断だ。  ところが、それから四ヶ月後の十二月二十五日。  再び驚天動地の出来事が列島を震撼させる。  それは将軍の死去をも上回る最大限の衝撃となって、新撰組を動揺させることになる。  
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