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 上級旗本の地位を得た近藤は、精力的に政治活動を開始した。  まずは六月十七日に開催された親藩会議に乗り込み、薩摩主導で提出された建白書に真っ向から異を唱える。  薩摩の島津久光はその頃、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城とともに四侯会議(しこうかいぎ)を開き、いまだ朝敵扱いとなっている長州の名誉を回復させ、一気に政冶の実権を十五代将軍徳川慶喜から奪い獲ろうと画策していた。  彼らが朝廷に提出した建白書には、第二次長州征伐は妄挙(もうきょ)であり過ちであったと記されている。  そんなものが認められたら、幕府と長州の立場は一気に逆転してしまう。  天皇が勅許をくだす前に、なんとかしなければならない。  慶喜と容保の意を受けた近藤は親藩会議に乗り込むと、島津久光らに対し、こう吠えたてた。 「長州征伐は孝明帝と家茂公の激烈なるご意志にござる。今になってこれを否定するは、先帝の墓を暴くが如き所業。拙者の(げん)に反論のある方は申し出られよ!」  刀の柄に手をかけて、返答次第では斬って捨てると言わんばかりの剣幕であった。  島津久光らはその気迫におされ、結局何ひとつ決定することなく会議は散会となる。  近藤は、すぐさま独自の建白書を作成し、摂政の二条斉敬(にじょうなりゆき)に提出した。  この時期の近藤は、幕府の要人として獅子奮迅の活躍を見せる。  池田屋の名声は諸侯の耳にも届いており、反幕派の藩主の中には、近藤を恐れて口を(つぐ)む者が多かった。  上流階級サロンに突如野犬が投げ込まれた格好である。  幕府は当初からその効果を狙っていた。諸藩の中にはどちらの側にも(くみ)せず様子見のところも多い。こういう時は声の大きな人物が必要なのである。  近藤がいるだけで、その場に殺気が(みなぎ)った。  近藤も自分の役割を心得ており、いざとなったら刀を抜く覚悟で幾多の会議に参加していた。
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