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 勝海舟が江戸へ到着した時、江戸城に将軍・家茂の姿はなかった。  すでに陸路を選んで京へ発ったことを知った勝は茫然となった。  彼には、なんとしても将軍を船で運ばねばならぬ理由があったのだ。  そもそも海路での将軍上京は、勝の建白書によって決まったことである。 「これからは海の時代。英国の王も植民地視察には蒸気船を使う。わが国の首脳もこれを用いるべきである」  というのが建白書の骨子だ。  なにより時間と経費の節約になると勝は力説した。  これまで幕府の要人が船で国内を移動した例は皆無だった。  海路は危険であるとの認識に幕閣は支配されていた。  勝はその常識を覆すため、まず先発隊として去年のうちに老中の小笠原長行(おがさわらながみち)を兵庫へ運び、次いで政事総裁職の松平春嶽を運んだ。  さて、いざ本番と勇んで江戸へ戻ったところ、この有り様である。  勝は神戸に海軍操練所を設立する構想を持っていた。私塾も併設し、自らそこに移り住んで日本国の海軍を作るつもりである。  すでに築地に軍艦操練所があるが、それはあくまで幕府の海軍であり、勝が夢見ているのは日本国の海軍なのだ。  彼は将軍を蒸気船で運ぶことで、海軍の有用性とその増強が急務であることを説き、操練所と私塾の開設を家茂に直談判するつもりでいた。  その目論見が見事に外れてしまったわけだ。
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