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 もともと尊皇攘夷運動は、水戸藩の浪士たちが主導権を握っていた。  しかし運動が過激になり反幕思想が強まるにつれ、徳川御三家のひとつである水戸藩としては腰が引けはじめ、代わって薩摩藩や土佐藩といった外様の雄藩に主導権が移っていった。  しかし薩摩藩にしても土佐藩にしても、藩論が尊皇攘夷で統一していたわけではなく、攘夷派と開国派に分かれて激しい内部対立が繰り返させていた。  攘夷運動の先鋭化に手を焼いた薩摩藩では、藩主・島津久光によって過激派が鎮圧され、土佐藩でも藩主・山内容堂が開国派となったため、藩内が攘夷でまとまることができなかった。  その間隙をついて台頭したのが長州である。  長州藩だけが昨年、藩論を「尊皇攘夷」で統一することに成功した。  藩主から足軽に至るまで全藩士が尊攘の志士となったのである。    一躍、運動の最前線に躍り出た彼らは、他藩の脱藩者を吸収して急速に巨大化し、京の地で一大勢力を有するに至った。  「では我々はここで」 「坂本さんによろしくな」  山南・藤堂と土佐藩邸近くで別れ、土方と近藤は三条大橋へ向かった。  到着すると河原へと降りる。 「ここか?」  土方の問いに、 「うん、そのようだな」  近藤は周囲をぐるりと見回して答えた。  昨日――浪士組が京に到着した二月二十三日――の未明、恐るべき事件がこの場所で起こっている。  これまでの開国派公卿や貿易商など個人を標的とした天誅事件とはまったく次元の異なる、尊攘運動が新たな段階へ進んだことを示す象徴的な出来事だった。  前夜、京都等持院から盗まれた足利三代将軍(尊氏、義詮、義満)の木像の首が、さらし首としてこの地に並べられたのだ。  首の下には「逆賊」という文字と、「天朝を悩ませ、その意に従わぬ不忠者」と記した文章が書き連ねられていた。 「どういう意図で、そんな真似をしたんだろう」  すでに首級(しゅきゅう)の撤去されたその地に立って、近藤が土方に問いかけた。
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