1

7/10
前へ
/98ページ
次へ
 盆を下げるため、台所へ通じる廊下を進んでいたお琴の前に、一人の侍がすっと立ち塞がった。紫に金をあしらった派手な陣羽織を着ている。 「辺見様」  辺見新十郎(へんみしんじゅうろう)、二十八歳。  浪人・辺見重兵衛の次男で、幼少期を江戸で過ごし、二十一歳の時に剣の腕を見込まれ薩摩藩に召し抱えられた。剣術指南役を務めている。  お琴は腰を折って小さくお辞儀する。 「斬らなくてよかった」 「え?」 「あの二人、お知り合いだったのですね。大久保様から腕を試すよう命ぜられたのです。場合によっては斬り捨てても構わぬと」 「まあ」  驚いたように小さく口を開けた。 「斬らなくてよかったです。お琴さんの悲しむ顔は見たくありませんから」  するとお琴は悪戯っぽい表情をこしらえて、 「あの方々は天然理心流の達人です。そう簡単には斬られませんわ」  と微笑した。 「確かに相当な腕前でした。特に近藤とおっしゃるご仁のほうは、おそろしいほど見事な太刀筋で、こちらが一瞬ひやりとしたほどです」 「どちらもお怪我がなくてなによりです」 「そうですね」  辺見は柔和な顔で笑うと、じっとお琴を見つめる。  話題を変えるように言葉を発した。 「お琴さんが来てから、邸内が明るくなりました」  お琴は照れたようにかぶりを振り、 「でも気が利かないでしょう――。江戸の藩邸でも叱られてばかりだったんですよ」 「ここでは皆、歓迎しています」 「本当かしら」 「もちろんです。もしあなたを(いじ)めるような女中がいたら、拙者に言ってください。とっちめてやりますから」 「まあ」  と笑って一礼し、そのまま行き過ぎようとする。 「してくれないんですね」  辺見の声に、えっ、と振り返る。 「拙者が贈ったかんざし」 「……」  お琴は途端に困ったような顔になった。 「ごめんなさい」  こうべを垂れると、 「お返ししなければと思っていたんです。私には受け取れませんわ。あのような高価な品」 「高価ではありません。四条の市で買った、たんなる……」 「ごめんなさい」  そう言うと、足早に台所へと立ち去っていった。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加