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盆を下げるため、台所へ通じる廊下を進んでいたお琴の前に、一人の侍がすっと立ち塞がった。紫に金をあしらった派手な陣羽織を着ている。
「辺見様」
辺見新十郎、二十八歳。
浪人・辺見重兵衛の次男で、幼少期を江戸で過ごし、二十一歳の時に剣の腕を見込まれ薩摩藩に召し抱えられた。剣術指南役を務めている。
お琴は腰を折って小さくお辞儀する。
「斬らなくてよかった」
「え?」
「あの二人、お知り合いだったのですね。大久保様から腕を試すよう命ぜられたのです。場合によっては斬り捨てても構わぬと」
「まあ」
驚いたように小さく口を開けた。
「斬らなくてよかったです。お琴さんの悲しむ顔は見たくありませんから」
するとお琴は悪戯っぽい表情をこしらえて、
「あの方々は天然理心流の達人です。そう簡単には斬られませんわ」
と微笑した。
「確かに相当な腕前でした。特に近藤とおっしゃるご仁のほうは、おそろしいほど見事な太刀筋で、こちらが一瞬ひやりとしたほどです」
「どちらもお怪我がなくてなによりです」
「そうですね」
辺見は柔和な顔で笑うと、じっとお琴を見つめる。
話題を変えるように言葉を発した。
「お琴さんが来てから、邸内が明るくなりました」
お琴は照れたようにかぶりを振り、
「でも気が利かないでしょう――。江戸の藩邸でも叱られてばかりだったんですよ」
「ここでは皆、歓迎しています」
「本当かしら」
「もちろんです。もしあなたを苛めるような女中がいたら、拙者に言ってください。とっちめてやりますから」
「まあ」
と笑って一礼し、そのまま行き過ぎようとする。
「してくれないんですね」
辺見の声に、えっ、と振り返る。
「拙者が贈ったかんざし」
「……」
お琴は途端に困ったような顔になった。
「ごめんなさい」
こうべを垂れると、
「お返ししなければと思っていたんです。私には受け取れませんわ。あのような高価な品」
「高価ではありません。四条の市で買った、たんなる……」
「ごめんなさい」
そう言うと、足早に台所へと立ち去っていった。
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