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  「まさかお琴さんが薩摩藩邸にいるとはな」  近藤が信じられない様子でいった。 「何を考えてるんだか」  土方は憤激した顔で言葉を尖らせる。  ふたりは薩摩藩邸を出て、屯所への道を足早に進んでいる。 「歳さんのいる京に残ろうってことだよ。やはりきちんと話をつけた方がいい」 「話ならとっくについてる」 「しかし……」 「江戸を出る時、誓い合ったろ。俺たちは係累(けいるい)を断ち切って死地に赴く」 「それはそうだが」 「この話はもう仕舞いだ、近藤さん」  怒ったようにいった。  土方の言葉の激しさに、近藤は頷いて口を噤む。  と、その時だった――。 「あら、近藤はん」  前方からはんなりした京言葉が聞こえてきた。 「土方先生もご一緒で」  丸顔で目の大きな芸娼が後ろにお付きの中年女性を従え歩いてくる。  近藤が途端に渋い顔を作って背中を向けた。  土方がくすりと微笑(ほほえ)む。 「太夫。今日はどちらへ」 「へえ、これからお稽古どす」  屯所からほど近い島原遊郭の木津屋に在籍する深雪太夫(みゆきだゆう)である。  京には祇園、上七軒(北野新地)、島原という三つの代表的な遊里があるが、島原は庶民的な雰囲気が売りで、貧乏な近藤らでも通うことができた。  深雪太夫は近藤に身を寄せるようにして、 「すっかりお見限りどすなあ、近藤はん」  皮肉たっぷりの調子で言った。 「今度はいつ来てくれはるの?」  近藤の肘のあたりを思い切りつねり上げる。 「いててて」 「どこぞにええ人でもでけたんどすか?」 「そ、そうではない。養父が病に倒れ、仕送りをせねばならなくなったのだ」 「まあ。嘘の下手なお人どすこと」 「本当だ。なあ、歳さん」  助けを求めるように見るが、土方はただ可笑しそうに笑っている。 「気ぃ持たせるだけ持たしといて、それっきりやなんて、ほんまいけずなお方」  太夫は頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向くと、そのまますたすたと歩き去っていった。  近藤はわざとらしい咳払いをひとつする。 「身請けするなんて、大きなことを言うからだよ」  土方がとがめるように言った。 「いや、本当にそのつもりだったんだ。金さえあれば身請けしている」 「近藤さんは女の前で大きいことを言い過ぎる」 「仕方ないだろう。歳さんとは違うんだから」 「はあ?」 「あんたはその顔だ。黙ってたって女が寄ってくる。だがこちとら鬼瓦のような顔を首の上に載っけてるんだ。大きなことの一つや二つ言わなきゃ、なびいちゃくれない」
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