雨嫌い。

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雨嫌い。

 窓の外では雨音が響いていた。パソコンの画面から顔を上げ、傍らのカーテンを捲る。ところどころ、雲の薄いところから太陽の光は差し込んでいるものの、空は灰色一色だ。振り返ると奥さんである先輩が、裏返しにしたトランプをテーブルいっぱいに広げていた。一人で神経衰弱でもしているのだろうか。暇ですね、と声を掛けると、私は忙しい、と顔も上げずに答えた。旦那より一人神経衰弱の方が大事とは、連れない方だ。それとも透視の練習でもしているのだろうか。先輩はやたらと霊感が強い。だからお化けだけでなく物を透けて見ようと練習をしていてもおかしくない。まあそもそもこの人は割と気まぐれだ。お好きに過ごすがよろしい。  再びネットの海へと戻る。そしてどうでもいいニュース記事やサイトをぼんやりと眺める。暇だ。折角の休日なのに、雨なんて。それも五月の半ばで陽気も丁度良いと言うのに、貴重な休みが潰れてしまった。観たい映画や行きたい美術展もある。当然、それらは屋内施設だから雨だろうが営業はしている。だが、そこへ辿り着くまでに絶対濡れる。服が濡れた状態で過ごすのは嫌いだ。肌にへばりつく感触が気持ち悪い。冷たいから風邪を引きそうで気が気じゃない。そして、そういうマイナスの状況へ、自分が望んだわけではなく、また自分に責任があるわけでもなく、しかし雨を避け切ることなど不可能なため絶対に陥らなければならないのがこの上なく嫌だ。だから俺は雨の日に外出をするのが嫌いだ。そう主張すると雨合羽でも着て歩けと言われるが、目的地に到着した後、濡れた合羽を持ち歩くから結局腕や腹が濡れる。外で雨から身を守れても、中に入ってから濡れるのでは同じではないか。いや、確かに濡れる面積は傘のみで外出するより減るけれど、えっちらおっちら着込んで、脱いで、手間暇かけたのに濡れるんかい、と思うと瞬間的な苛立ちは合羽を着用する時の方が大きい。  暇だのなんだの言いながら、引き籠ってうだうだ過ごすのが一番ストレスが少ないな。そんな一つも利益にならないことを欠伸交じりに考えていたらば。 「成程ね」  先輩が呟いた。何がです、と振り返る。何枚かのトランプが引っ繰り返されて表を向けていた。数字はバラバラ。ふむ。神経衰弱でも、透視能力の発現練習をしていたわけでもなさそうだ。暇にかまけて何をしていたのやら。田中君、と先輩が此方を向く。ちなみに結婚しているので先輩も名字は田中なのだが、出会った大学生の頃からずっと呼んでいて慣れている、という理由で今でも呼び方は変わっていない。写真部で出会って八年か。あっという間の幸せな時間だったな。そんな愛しの奥様は、静かに立ち上がりすぐ傍までやって来た。 「君、相も変わらず雨が嫌い?」  はい、と即答する。丁度今、考えていたことじゃないか。 「濡れるから嫌なんだっけ」 「そうです。布のべちゃっとした感触も、雨の冷たさも、それで嫌な思いをする原因が俺に何一つ無いところも、全部嫌いです」  まあねえ、と先輩はダイニングチェアに腰を下ろした。細く長い足を組む。色、白いですね。 「しかし雨の度に苛々していては精神衛生上よろしくない。少しは前向きに捉えたまえよ」 「無理です」 「即答か、わはは」 「先輩も虫が嫌いじゃないですか。そいつらが解き放たれた部屋で一晩一緒に過ごして慣れてこいって言われたらどうします?」 「業務用殺虫剤を買って来て、入室前に散布する」 「それと同じですよ。俺は雨が嫌いです。そして、嫌いという自分の感情を受け止め、無理矢理外出なんてしないで、なるべくストレスが掛からないよう家の中で過ごします」 「しかしだね、仕事の日は否が応でも外出せねばなるまいて」 「そこは諦めました。雨だから休みます、ってどっかの国の大王じゃあるまいし、そんな言い訳は通用しない。嫌々、渋々、苛々しながら出勤して働いて帰宅します」 「ほら、その感情は良くないぜ。ちょっとは雨の日の外出も明るく受け止められるようになろうじゃないか」  やけにしつこいな。その理由を考えてみる。雨の日だけど、雨嫌いの俺を外に出したい。それも割と切実に。しかし何故なのかは教えてくれず、あくまで俺の捉え方を矯正させるという口実を主張している。  わかった、と腕組みをした。 「先輩、買いたい物があるんでしょ。大きめの品だから、俺の手が必要である。そして、そのお店は雨の日にセールをやっていて、今日は安くゲット出来る。だけど先輩の都合だからはっきりとは言い出せなくて、雨の日も楽しく外出しようじゃないか、って俺を誘い出しているわけでしょう」 違いますか、と自信満々に顔を覗き込む。 「違うけど」  一蹴された。唇を噛む。あのなぁ、と先輩は膝に肘をつき、その手の甲に顎を乗せた。体、柔らかいな。でも腰を痛めそうだ。 「そんな回りくどい真似、私はしない。君と違ってね」 「本当ですかぁ?」 「少なくとも、今、君が言ったような状況だったら私はきちんと事情を説明して、はっきりとお願いをする。手伝って欲しい、と」  う、確かに。 「……先輩は、そうですよね。ちゃんと頼みますよね」 「それくらいは長年の付き合いでわかっていると思ったが、何故君は今、余計な邪推をした?」 「……外に出たくないから」  素直に答える。途端に先輩は吹き出した。どんだけ雨が嫌いなんだ、と華奢な肩を震わせる。 「だって濡れるの、本当に嫌なんですもの」 「雨合羽を着れば良かろうもん」 「合羽は目的地に着いたら脱ぐじゃないですか。そして手に持つじゃないですか。結局、腕と腹が濡れるじゃないですか。嫌」 「まあまあ、繊細な旦那様ですわね。だが安心しろ、今日はただのお散歩だ。羽織った合羽は脱がなくていい。ちょっと見に行きたいところがあるのだよ」 「えぇ~? 散歩ぉ~? この雨の中、わざわざしなくてもいいじゃないですか」  雨が降ったなら家で大人しくしているべきだ。昔の人も晴耕雨読という素晴らしい言葉を生み出している。しかし先輩は部屋着を脱ぎ始めた。君も着替えろ、と真っ白な背中が寝室に消える。後に付いて行き、着替え途中の先輩の肩を叩いてベッドを指差した。 「だぁめ」  薄い笑みを浮かべて首を振られた。溜息を吐き、仕方なく俺も着替えることにする。ちぇー。
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