雨のいいところ。

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雨のいいところ。

 雨合羽を装備し、長靴を履いた俺はしっかりと傘を握り締める。長袖シャツとスキニーを身に着けた先輩は、防水スプレーをかけただけの靴をつっかけていた。淡い青の傘を差し、中棒を肩に乗せている。こっち、と歩き出す先輩の横に並んだ。耳を澄ましてご覧、と先輩が口を開く。雨の音が大きくて、少し聞き取り辛い。こういうところも好きじゃない。 「雨音にはヒーリング効果があるそうだ。雨なんて嫌い、と頭から突っぱねたりせず、いい面も受け止めてみたまえよ」  まさに雨音へイラっとしたばかりなのだが、先輩に言われたので聴覚に意識を集中させる。雨が滴り地面に当たる音。絶え間なく、無数の水滴が落下しては地面にぶつかり弾けている。何粒も、何百粒も、何千粒も何万粒も。ずっと、たくさん、際限なく、そこかしこで降り注ぎ続けている! 俺の周りの少なくとも半径数キロメートル以内で! 「あぁ、うるせぇ!」  胸の辺りがカッとなって思わず叫んだ。嘘だろ、と先輩が口元を押さえる。顔は完全に笑っていた。 「だって先輩、数が多すぎる上に途切れないんですもの。そいつらが到底避け切れない弾幕みたいになって空からずっと落ちて来ているんですよ? 頭がおかしくなりそうです」 「ヒーリングどころか逆効果じゃん。どんだけ雨が嫌いなのさ」 「無理なものは無理」  やれやれ、と先輩は歩きながらスマホを開いた。普段なら危ないから肩を抱くのだが、雨が降っていてはそうもいかない。傘をどかしたら先輩が濡れてしまう。それに俺の濡れた雨合羽で先輩の服へ触れるわけにもいかない。 「そういうところもストレスだ」  つい口を突いて出た。何が? とスマホから俺に視線を移す。 「雨の日は肩を抱けない。手も繋げない。腕も組めない。何故なら濡れてしまうから」 「そんなに私とくっついていたい?」 「無論です」  またしても即答すると、可愛いやっちゃ、と白い歯を見せた。だけど視線がスマホに戻る。こっちを向いて下さいよぉ。 「雨の効果は他にもあるとネットの記事には書いてあるぞ。よし、読み上げちゃろう」 「歩きスマホは危ないですよ」 「君がしっかり守っておくれ」  そこまでして雨の良さを説きたいかね。駄目なものは駄目なんだってば。 「ええと、まず雨音のヒーリング効果。これは君を発狂させただけだった」  えぇ、と深く頷く。本当に頭がおかしくなるかと思った。 「他にも、雨が降ると空気が綺麗になるそうだ。大気中の汚れを洗い流してくれるんだって。ほら、深呼吸をしてご覧。今なら綺麗な空気が吸い放題だ」  言われるがままに従う。そうか、いい空気なのか。実感はまるで無いけど今、俺は綺麗な空気を吸っているのか。 「どうだ、綺麗か」  違いが全くわからん。俺は空気のソムリエじゃないんだ。だが、あんまり否定ばかりを述べるのも流石に可愛げが無い。先輩は俺のため、良かれと思って調べてくれているのだから。 「そうですね、何となく引っ掛かりが少ない感じはします」 「それ、多分プラシーボ効果だぜ。気のせいってやつ」  歩み寄ったのにぶった切られた。先輩っ、と語調を荒げると、冗談だよ、と鈴のような声を上げた。昔からこうだ。いつも先輩にからかわれてしまう。 「まったくもう、折角話を合わせたのに」 「だって微粒子だのバクテリアだのを洗い流してくれるらしいって書いてあるんだもんよ。そんな些細な違いがわかるとしたら、君の鼻毛は繊細過ぎる」 「鼻毛限定かい。って言うか、先に詳細を教えて下さいよ。そうしたらもうちょっと上手く乗ったのに」 「ま、気持ちのあり様も大事だろ。さて、次」  本当に自由気ままなお方だ。そんな先輩が俺は大好きなのだけれどね。 「雨で気温が下がった日に運動をすると、体温を高く保とうとするため脂肪がよりいっそう燃焼される、だって。痩せられるぞ田中君」 「いや、むしろ湿度が高過ぎて暑いんですけど。雨合羽も着ているから、中が滅茶苦茶蒸れているし」  五月とは思えない程、発汗している。顔を伝っている水分は雨ではなく汗だ。ああ言えばこう言うな、と先輩は整った眉を顰めた。 「事実ですもの。って言うか、空気が綺麗って話には乗ったのに、気のせいだって一刀両断したじゃないですか」 「した」 「その後、話に乗れって言われてもやり辛いですよ。だったら寄り添うよりも、正直に現状と心境を述べた方が気楽です」  俺の訴えを聞いた先輩は、ふうん? と肩を竦めた。 「まあ前向きに考えようじゃないか。汗をかいているのなら、サウナスーツみたいな効果が発揮されているわけだ。よし、結果的に雨の日に運動をすればどう転んでも痩せられるな」  どんだけポジティブなんだ。 「あとは、あぁそうか。匂いね。ほら、嗅いでみたまえ。独特の香りがわかるかい。植物や土のものらしいよ」  それに対して、あの、と小さく手を上げる。 「なんじゃ」 「先輩は覚えておいでですか。俺が匂いで雨が来るかどうかわかるって話をしたことがあるのを」  ん、と首を傾げた。そして、覚えていない、と仰った。溜息が漏れる。 「おや、その反応を見るにあまりいい思い出では無さそうだね」 「あれは学生の頃でした。先輩と写真部の活動で、山のハイキングコースを訪れた時です。その日は一日、いい天気でした。しかし夕方、突然雨の匂いが強くなったのです。これは夕立が来るなと確信し、既に通り過ぎていた屋根の付いている休憩所へと引き返しました。先輩は戸惑っておいででしたが、雨の匂いがするから十中八九降りますよ、と俺は譲りませんでした。直後、本当に夕立が来ました。まあえらい降りようで、屋根が無ければ鞄もびしょ濡れになりカメラも危なかったかも知れない、とビビるくらいひどかったのです。その時先輩は、俺に尋ねたのです。匂いで雨が降るかどうかわかるのか、と。肯定すると、すげぇな、と感心してくれたのですが。地元じゃ誰でも出来ますよ、と答えたら、ドい、とだけ呟いた貴女はしかし口を噤みました。気まずい空気に包まれたから、よく覚えています。あの時の先輩、ド田舎に住んでいる人の特技じゃん、とでも言いかけたのでしょう。違いますか?」  先輩は黙ってそっぽを向いた。多分、そんなやり取りは全く記憶に無いけれど物凄く私が言いそうな台詞だ、とでも考えているのだろう。そして素直で正直だから、言おうとしていない、と否定も出来ず、かといってそうかも知れない、と肯定するのもちゃんと自粛したのに今認めてどうする、と引っ掛かっているに違いない。葛藤が手に取るようにわかる。なにせ夫婦だからね。 「別にいいですけど。田舎出身なのは事実ですし」 「いや、私だってシティガールじゃないぞ」 「シティガールて。じゃあ俺は田舎ボーイ?」 「君の地元、いいところじゃないか。まさか本当に裏山というものが存在するとは驚いたよ」 「日本全国、いくらでもあります。町の裏に山があればそれは裏山なんだから。そして貴女、一昨年うちの実家の法事で四月下旬に訪れた時、花粉に滅茶苦茶苦しめられていましたよね。裏山の中腹に先祖代々の墓がありますが、車から降りた瞬間にくしゃみを連発し、目を真っ赤にして、ひたすら鼻をかんでいたじゃないですか。本当にいいところだと思っていますか?」  ちくちくいじめると、しょうがないだろ、と唇を尖らせた。 「道路が黄色くなるくらい花粉が飛散していたんだぞ。そもそも私は薬が嫌いだから滅多に飲まないの、知っているだろ。だけどあんなにひどい状況なんだったら場の空気を壊さないためにも服用したさ。あの時、花粉がヤバいって教えてくれなかったのは君の意地悪以外のなにものでもない」 「すみません、意地悪ではなく完全に忘れていただけです。先輩が薬を飲まないことを」 「ふーんだ、薄情な旦那だよ。おかげで親戚の方々に同情されたんだぞ。貴女、ひどい花粉症ねって。鼻水垂らして、目を腫らして、君のおばさんにティッシュまで恵んで貰ってさぁ。乙女の面目、丸潰れだ」  法事を終えて、帰りの飛行機に乗って二人きりになった途端に全く同じように怒られたのを思い出す。人間、二年くらいじゃ変わらないな。そして俺が先輩をいじめていたはずが、いつの間に立場が逆転したのか。 「まあでも、そんな花粉も雨なら洗い流せるんでしょ」 「雨嫌いの君が主張しても、苦し紛れに話題を変えようとしているのだと丸わかりだ」  目を細め、睨み付けられる。ごめんなさい、と頭を下げると鼻を鳴らされた。まあいいけどさ、と雨音に交じって声が届く。少し聞こえやすくなったのは、雨が弱まっているからか。このまま止んでくれるかね。雲も薄い部分はあったし。
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