激走蝸牛

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 しとしとしと、雫が降る。  煌めき絶えず、いくつも。  僅かな光を反射しながら、明緑の足場を叩くのだ。  囲まれる湿度。生きるに適した最高の世界が顕現。  軟体を捻り、頭を伸ばして、身を守る殻穴から覗き見る。  何者の接近もなく、地面を揺らす巨人の不在を確かめる。  最も恐ろしきは、飛翔から加速し降りる翼の影。一閃の捕食。  でも、今日は大丈夫。雫に濡れる灰色の空では舞えないから。  狭い殻から頭を出し、思いきり身体を伸ばして、体調を知る。  あまりの好調に嬉しくなる。触れる水分と豊富な湿度のおかげ。  堅くて重い殻を背負い、最適に濡れた明緑の足場を這って進む。  普段とは比較にならないほどにスムーズ。文字通りの滑り出し。  這って、這って、もっと先へ。  この程度で止まるなど惜しい。  潤う時期にのみもたらされる愉しみなのだ。  自分の身体の何倍も大きな緑の足場。それすらも狭く感じられる。  這って移動して、滑り降りて、次の足場へと。跳ねてすら活発に。  自分にこんな真似ができたのだな、という驚き。  はしゃいで仕方のない自分と、止まらぬ勢いで。  早く、素早く、もっと速く、加速に次ぐ加速。  そのうち、足場を飛び移る必要もなくなった。  変わらず自分は這っている。  ただし、それは緑の足場ではなく、茶色の柱に縋っているわけでもない。  何もない所を、言うなれば空を、這い進んでいる。  おそらく、速過ぎたのだろう。  一カ所で遊ぶには、狭かった。  身体を伸ばし、縮めて、それを忙しなく繰り返す。  降り注ぐ大量の雫を、身体全体で受け止めながら。  雫に叩かれる背の殻が、音を上げて喜んでいる。  水平に空を這っていた身体は、徐々に上方へと。  もっと高く、もっと雫を浴びて、もっと自由に。  目一杯、頭を伸ばして、上へ、上へ、と。  振り向くと、緑の一帯は既に、遥か後方。  真下を見ると、四角い灰色の群れが広がっている。  ああ、自分はあれを知っている。巨人達の住処だ。  このように上層から目にしたのは、初めてだった。  初めての経験。初めての体験。初めての状況に身体全体が震える。  どこまで行けるだろう。叶うなら、どこまでも這い進んでみたい。  まだ見ぬ場所へ、まだ見ぬ世界へ、まだ知らぬ未知にまで触れて。  力一杯の加速。先程まで以上に、自分の限界だと分かるくらいに。  殻を叩く雫が避け始める。空を切るこの加速度が超越しているからだ。  左右に分かれて散り舞う水分。冷たいはずのそれは、熱を帯び始める。  散らして、散らして、気づけば這うのではなく、一直線に飛んでいた。  身体は空中に、眼前には、一面の曇天が迫る。未知だ、と嬉しくなる。  雲は知っている。だけど、この中がどうなっているかまでは知らない。  知りたかったから丁度良い。進んで迫り、思い切って突き抜けてみた。  何度も、何度も、それを繰り返す。  雲の中は実に不思議な感触がした。  触れているはずなのに掴めない。冷たいけれど重さが無い。  たまに、ちかちかと閃光が走り、身体が痺れる瞬間がある。  これが雷というやつか。青白いそれが映える度に心が躍る。  それでも、雲も、雷も、あまりの高速に圧され裂けていく。  通り過ぎた一直線には虚空だけが残り、形成されていたものたちは消散していく。  曇天は晴れ、吹き飛ぶ水滴。冷たさから温かさへと転換する瞬間、その爽やかさ。  昇るに夢中だった先程以上に、この遊びに夢中となった。  愉しい。面白い。純粋に、やってみて良かった、と思う。  遂に視界全ての雲を散らして、空には青ばかりが残った。  美しい。地上から眺めるより何倍にも果てしない、美麗。  この身体で作り出した雨上がり。  ああ、そうか。そういえばそう。  あれは、雨という名前だったか。  今頃になって思い出して。  今頃になって気がついた。  水滴が無くなってしまったら、加速できないではないか。  気づけば既に減速し始め、地上へ向けて落ちている自分。  もう終わりなのか、という寂しさを感じる。  もう少し空を這い、飛び進んでいたかった。  遥か上空の景色と体験を、堪能したかった。  そんな物足りなさは、しかし振り返って見た後方の空模様で、かき消えた。  地上から昇ってきた空の道筋。  先程まで泳いでいた空の頂上。  落ち行く、この身体の後ろで。  七色のアーチが形成されていた。  嗚呼、なんて素晴らしい現象だ。  空の青とはまた異なる美しさ。幻想の色合い。  この七色のアーチにも名前があるのだろうか。  風を切って空を下りつつ、知りたいと思った。  地上に降りたら、巨人達が何と口にしているかを聞いてみよう。  これだけ大きくて目立つのだから、きっと騒いでるに違いない。  空を這い、雷を浴び、雲を散らして晴れを呼ぶのは面白かった。  そして地上に帰り着いても、まだ知る愉しみが残っている幸せ。  浮かれた気持ちで高速に落ちていく。  緑の足場が受け止めてくれるだろう。  そして、今度は、ゆっくりと。  雨上がりならではの楽しみを。
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