黒い夜

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 それは「黒い夜」だった。  月も星も見えない。雲が厚く垂れ込めているのだろう、今すぐにでも雨粒が落ちてきそうだ。  フイキは日中に住まいの屋根の修理をしていた。大切な家族が雨に濡れたら可哀想だ。特に今は乳飲み子がいる。フイキの三番目の子で初めての女の子だった。  妻のミアサはすでにその子に添い寝して寝入っている。フイキが雨に気づいたのは、夜中に用足しに外に出てからだった。急にばらばらと髪の毛や首筋や肩を叩いた。  昼中に直しておいてよかったとフイキは安堵し一人微笑む。  「黒い夜」は慣れっこでも、どこか本能的な怖さがある。  狼などが現われる可能性もある。  野生動物は油断がならない。  人間たちは皆、軽く住まいの外に出る時も、武器を手放さなかった。長めの石槍、皆で協力して一つ一つ作ったものだ。  離れた共同便所で用を足し、勘にしたがってわが住まいの方向へと足を進める。  こういう夜はやはり苦手だ。  まだ母親の腕に抱かれていた幼い頃を思い出す。  環状に作られた集落の近くには河が流れている。  ふと、こんな「黒い夜」に、嵐で水かさが増したこの川に投げ込まれた時の記憶が蘇り、フイキは身震いする。今は稲穂も育ち始めた時分。寒くはないが、あの儀式はやはり心に恐怖というものを初めて刻んだ記憶だ。  もちろん、慣例に従って一番目のハオルにも二番目のミオサにも同じ儀式を施した。二人とも無事に生還した。さすがわが子と喜んだのも束の間、同じ集落のフクエはそれで幼い命を失ってしまった。フクエの母親、スヤの慟哭は忘れられない。この儀式で死者がでることは滅多にないことだった。
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