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前編
「あいつは黒だな……」
取調室の鏡越しに、刑事である高柳は呟く。それに呼応するように、後輩刑事の鳥海が頷く。
「先輩はあの奥さん……満島佐良子が夫殺しの真犯人だと?」
「あぁ。あまりにも落ち着きすぎている。それに、あれは嘘を付いている目だ。夫は暴漢に殺されたと証言しているが違う。暴漢など最初から存在していなかった。全て彼女のでっち上げだ」
「だとしたら動機は……?」
「彼女をよく見てみろ。袖から痣が見えているし、首元にも痣がある。彼女はDV被害者だ。夫である輝義氏は彼女に日常的に暴力を振るっていたんだろう。そしてそれに耐えかねて……という所かな」
「ありがちな動機ですね……」
「ありがちだが、本人にとって、それは地獄でしかない。彼女の中には真っ黒な澱が貯まっていたんだろう。それが爆発した結果が、これだ」
ふたりは取調室の中に入って行った。すでに取り調べをしていた刑事がふたり中にはいた。
高柳は穏やかな口調で佐良子に問いかける。
「奥さん、正直に話して下さい。あなたはDV被害者ですね?」
佐良子は伏せていた目を上げ、真っ直ぐに高柳を見つめる。
「えぇ……良く分かりましたね。私は夫から日常的に暴力を振るわれていました。でもだからって私はあの人を殺してはいません」
「本当ですか? もうそろそろ正直に話してくれても良いんですよ。あなたの事情を鑑みれば、情状酌量で刑期は短くなる可能性がある。それとも別に動機があったとか? とにかく私たちは真実が知りたい。あなたの殺意がどこからやって来たのかが知りたいんです」
佐良子は取調室をぐるっと見渡し、フッと微笑むと高柳を一瞥した。
「……刑事さん、特殊性癖ってご存じかしら?」
「は? 一体何を……?」
「彼、私の首を締めながらじゃないと、興奮しないらしいんです」
「え? どういう事ですか?」
佐良子は赤く塗られた唇でニヤッと笑う。
「彼ね、私の首を締めながらも、自分の首も締めてくれって、もっと刺激をくれって懇願するんです」
「それと今回の事件、何が関係していると言うのですか?」
「まだ分からないの……? 刑事さんの性癖は真っ白で綺麗なものなのね。私と夫の癖は漆黒より深い黒のように歪んだ世界の延長上にあって、とても常人には理解しがたいものなのよ」
黙って聞いていた鳥海がハッとした表情を浮かべた。
「まさか……? プレイ中の事故……?」
佐良子は妖艶に微笑む。
「そうよ。彼の死は彼にとっても本望だったの。だって、愛する私に弄られながら逝ったんだもの。あの日はふたりとも興奮しすぎて、私もつい調子に乗って、彼の首を強く締め過ぎたのよ」
高柳は溜息を付きながら吐き捨てるように言う。
「まさかね……暴漢が絞殺だなんておかしいと思っていたら、奥さん、あなたそれじゃ情状酌量の余地もないですよ。ある意味事故だったとも言えるし、殺意は否定出来るでしょう。しかしね、そんな結末は世間が黙っていませんよ」
「ふふ……世間は私を叩くでしょうね。淫売の悪魔とでも言うかしら? 私の罪は業務上過失致死って所かしら?」
「ふざけるな! 人をひとり殺しておいて反省する姿勢は見せないのか!」
高柳はバンッと机を叩き怒鳴り声を上げたが、佐良子は平然とした表情でニッと笑うと言葉を紡いだ。
「刑事さん、私と一度シてみる? 私とすれば、彼がどんなにか幸せなまま逝ったのか分かるわよ?」
高柳は床に唾を吐いて穢れたものを見るかのような目で佐良子を見た。
「けっこうです。私にはあなたたちご夫婦のような変態性癖はないのでね!」
「あらぁ、残念。真っ白なあなたの欲望に、黒いシミを付けてあげたかったわ」
あははは、と可笑しそうに佐良子は笑う。
その場にいた刑事全員が佐良子を軽蔑した。死んだ輝義の事も軽蔑した。
彼女はそのまま検察に移送され、起訴された。裁判はそう長くは掛かるまい。何せ被害者も自業自得の結末だったのだ。残された彼の親も、息子の醜態を暴かれる事を快く思わないだろう。さっさと裁判を終わらせたいはずだ。幸いにも夫婦には子供がいなかったので、より悲しい結末を生む事にはならなかった。
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